全てはこの書から始まった。プロの歴史家では絶対に無理だが、建築家の目を通すとこんなにも違って見える。
 建築という補助線を引くと、謎の多くが解明される。

1.法隆寺は移築された
 建築家の眼が照らし出した移築の真実
  法隆寺の『昭和の解体修理工事報告書』『西院資材帳』などを建築の視点から詳細に検討し、法隆寺西院伽藍の金堂・五重塔、中門などが九州大宰府から移築されたものであると論じる。

はじめに

 法隆寺の建物は美しい。西洋のあらゆる建築と比べても、その美しさはひけを取らない。人間的尺度をもってつくられた、完成された造形は時間を超えて存在している。
 現在、一般に建てられる建物の法的寿命は数十年である。記念建造物として建てられたものでも、今後200年間保たれ得る建物はない状態であり、技術の粋を集めても造ることができないかもしれない。東京オリンピックの時に造られた代々木の貝殻状の体育館は、すでに雨漏りや地盤沈下が激しく、寿命が尽きそうである。
 法隆寺の建物は木造であるが、すでに1000年を越えて生き続けている。建物は計画する意図を別にしても、材料と技術の集積によって造られている。法隆寺で用いられた材料を挙げれば、土、石灰、石、木、藁、瓦、金属、顔料等である。この瓦をつくるためには、瓦博士と言う言葉があったことからわかるように、完成した技術が必要であった。また金属では、釘ひとつを取っても、まるで刃物のような材質のものが用いられており、すぐれた鍛冶技術があったことを物語っている。法隆寺が1000年を越えて存在することで証明されるように、すぐれた材料をつくる技術はすでにあった。
 また建物を建てる技術として、木構造には現代技術以上に精通していたと思われるし、各職方の技術を背景に、すぐれた構法が確立していたと思われる。
 法隆寺を造るために当時の文化が総合されていることが理解できるであろう。建物はそれ自体歴史を記録する記録装置とも言い得る存在である。ところが、これまでの歴史研究では、それを読み取る努力が不足していたし、その方法論が欠如していた。
 世界の最高の美を表現する建築のひとつ、法隆寺という記録装置には何が記録されているのであろうか。
(1991年5月)

目次

 第Ⅰ部 法隆寺の封印を解く

第1章 解体修理工事報告書の内容
    法隆寺研究の現状  五重塔の報告書
    金堂の報告書  浅野氏の論理の再検討

第2章 解体修理工事報告書の三つの真実
    筑紫大宰府観世音寺研究の現状  基壇について
    金堂内陣小壁間束について  五重塔須弥山について

 第Ⅱ部 日本文化の華・観世音寺の運命

第3章 観世音寺はいつ、だれが造ったか
    これまでの研究成果  六月肺出  融天師彗星歌
    釈迦三尊像光背銘  薬師像光背銘  『隋書』俀国伝
    『西院資材帳』   幡

第4章 その後の観世音寺
    上宮法皇の死  須弥山  『冊府元亀』
    法隆寺五重塔心礎  興留  法隆寺金堂の壁画

 第Ⅲ部 日本の風景・俀国の姿

第5章 俀国とはどのような国か
邪馬台国の中心地  磐井の乱  大宰府政庁遺跡

第6章 考古学的成果の再検討
    瓦について  観世音寺鐘について
    文様塼について  発掘例①  発掘例②

第7章 再び俀国について
    裴清  井戸  水城  俀国の領域

 第Ⅳ部 日本の天才・上宮王の業績

第8章 法隆寺の仏像
    法隆寺東院伽藍  ①夢殿観音像
   ②百済観音像  ③薬師像
   ④四天王像

第9章 創建観世音寺金堂の仏像
    三尊形式  夢殿観音像と百済観音像の比較
    薬師像との関係  浜田青陵氏の眼

第10章 正倉院御物の検討
    文化の流れ  工芸品について
    落書について  螺鈿鏡  唐との関係

第11章 俀国の宗教
    延年の舞  海獣葡萄鏡  仏教について
    『法華義疏』  南朝文化  法隆寺の意匠

 これまで文章らしいものを書いたことがなく、読んで頂ける文章が書けたかどうか不安である。この本の全体像が把握できたのは1988年7月14日である。
 15年以上前に友人の詩人が空海論を書いた。この友人に空海の人物を語ってもらったとき、空海が現代西欧の思想の基礎を築いた人々よりもはるかに昔に、それらの認識に達していたことを聞かされ、空海ほどの才能の持主が才能は認められたが、天才とは評価されていないことに不思議な思いがした。しかし、歴史の上に上宮王という天才が存在したことが明らかになると、空海の才能が当然の評価を下されていることがわかる。
 20年以上過ぎてしまった学生時代に、進化論が文化をとらえる上では全く無意味な考えであると感じた。本書で明らかにしたように壬申の乱後の日本がいまだ俀国の時代の文化のレベルに達し得ていないことと呼応している。我々は殆どの人が確固とした美意識を持っている――表現の問題は別にして――が、その意識が上宮王の時代に完成した美意識に収れんしていることは知らずにいる。

 以上は1989年に私家版として200部ほどを世に出した本の「あとがき」である。本書はその本の一部を訂正したり、その後の考察によってより明確になった内容を書き加えてある。
 読んでいただいた方々のなかで、私には不思議に思える次のようなご批判を何回となく受けた。
 「実証的な事実の解明は別にして、何が言いたいのか」と。ここまで読んでこられて、同様の思いを抱いておられる方があるかもしれない。
 読者の多くは歴史に深い関心を持っておられるであろう。日本人としての歴史を理解したい、納得したいと言う気持ちであろう。思考は言葉ぬきに展開しがたい。その言葉は歴史の所産以外の何者でもない。思考の積み重ねのうえに出来上がった認識の全体像は歴史認識の上に成り立っていると言える。認識のすべてが歴史との関わりによって存在しており、歴史は単なる知識ではありえない。
 被差別部落というひとつの言葉を取り出しても、納得できる説明がなされていないことは明らかである。日本人の存在の根底にいまだ説明がなされていない何かが大きく横たわっていることが感じられる。
 この本で実証的に解明された事実は読者の認識の全体像を変化させていくであろうか。1300年にわたって形成された認識と私が述べる事実とが、今、天秤にかけられる。
 法隆寺が九州の観世音寺を移築したものだと言うことに論点を集中したため、この過程で明らかになったことの多くは説明しきれていないうらみがある。観世音寺を移築して法隆寺とした事実から導き出された主要点は次の通りである。
 ① 現代の日本人が共有する日本古代史は、実は九州の倭国を中心に展開し、672年まで続いた。その中心地は大宰府都城で、卑弥呼、壱与、武、磐井、上宮法皇らが都とした。このことは邪馬台国論争が終結することを意味している。
 ② その文化の頂点は観世音寺を建造した上宮法皇の時代で、日本列島はすでに統一されており、東アジアの中心的文化国家であった。聖徳太子は上宮法皇をモデルにつくられた仮空の人物である。
 ③ 672年に大和勢力によって侵略され(大和朝廷内の権力闘争である壬申の乱と書き替えられている)、倭国文化はことごとく大和朝廷のものとなった。観世音寺をはじめ多くの建物が解体され、大和を中心に再配置され、大和朝廷の歴史を証明するものとして組み入れられた。
 ④ 倭国文化は西洋のビザンチン文化(東ローマ帝国)に匹敵する。現在でも西洋文化を越えている能という演劇を生み出したし、イタリア・ルネッサンスの彫刻を越える夢殿観音像や百済観音像などの仏像彫刻がつくられた。
 次に倭国滅亡後の日本がどのような歴史を経てきたかを、権力が消し去るべくあらゆる努力をした倭国の記憶ということに的をしぼって述べてみたい。
 倭国滅亡後は大和朝廷の弾圧下にあり、民衆はなすすべがなかったが、延年の舞の分析から推測出来るように抵抗が続いた。知識人の抵抗の試みは、『日本書紀』、『万葉集』等の中に、一般人は祭りや風習の中にタブーとして記憶を封じこめた。口に出すことさえ許されぬ事態であったと思われる。九州での倭国の存在を消そうとする権力と記憶を保つための民衆の知恵の対峙である。
 これに対して政治勢力の反権力行動としては平将門、藤原純友の乱をあげることができる。これより先、中国では唐が崩壊し、旧勢力が抬頭している。この動きと連動していたのであろうが日本での動きは失敗し、その後、大和朝廷に対する反権力の行動は現れない。政治勢力としての記憶(倭国再建の夢)は、200~300年で失われたことになる。
 室町時代になると権力側が弾圧の意図を忘れたように思われる(倭国文化を消し去って700~800年を経たことになり、その全体像の記憶が薄れたのであろう)。倭国で栄えた芸能諸般が復活し、秘蔵されていた絵画の類が日の目を見る。鎌倉時代にはすでに法然、親鸞が出て、浄土宗、浄土真宗を起こし、この時代には民衆の宗教心は高揚していた。ところが法隆寺では仏像が盗まれる事件がたびたび起っている。このようなことはこの時期だけで、その後は明治の廃仏毀釈によって一部が不明になった(最近フランスのギル美術館で発見された)ほかは、大切に保存されている。これは個人的に、倭国の記憶を残しているものがいて、倭国の仏像を自分のもとに置きたい思いで行った、と考えられる。このように個人レベルでの記憶は長く受け継がれる。
 しかし、九州での倭国の存在が消し去られた状態で時間が過ぎ、その全体像は不明となり、記憶は去っていったようだ。このミッシングリンク(忘れ去られた環)を知り得なかった近世の本居宣長以降、現在に至る学問は、盲人が象をなでるが如き本質との乖離を示している。これと対照的に民衆は記憶をタブーとして封じ込めた祭を守り、風俗や宗教に倭国の思い出を大切に保存してきたようである。近世以降の歴史の本質から乖離を意識し得た知識人は森 鴎外 以外には見あたらない。「歴史その儘と歴史離れ」の中で、民衆の伝える言い伝えや風俗等に歴史の本質が感じられたらしく、作家としてその話の内容を脚色することに否定的な立場を表明している。
 「わたしは史料を調べて見て、その中に窺われる“自然”を尊重する念を発した。そしてそれを猥に変更するのが厭になった」と言い、自分の作品について「わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それはただ観照的ならしめようとする努力のみである」と述べている。この小文に先だって発表されたのが『山椒太夫』であり、それが実践されていることが読み取れる。
 近代に入って、西洋文明を受け入れて新たに成長してきた歴史学も、森 鴎外 の感受性を理解することなく、矛盾に充ちた内容を呈している。建築史学における実証的研究において、考え難い誤ちがおかされていたことはすでに述べたが、ミッシングリンクの存在を認めれば、矛盾は解き明かせることを示し得たと思っている。まえがき でも述べたが、建築には多くの情報が詰まっており、建築史学的方法が歴史学一般に占める重要性を理解すべきであろう。
 西洋中世の金を作りえるとした錬金術師の認識と現代科学のそれが懸け離れているように、現代日本の歴史認識は真実とは別個のものになっている。倭国を知ることなく日本を知ることは出来ない。この本で述べたことがらによって、今後どのような学問分野に影響が及ぶかについては予測がたつ。そのことについて少々述べておこう。
 九州瓦の箇所(第6章 考古学的成果の再検討)で述べたことは、現在、歴史学で行われている時代区分である飛鳥時代、白鳳時代の順序が実際は逆だと言うことである。飛鳥仏である法隆寺釈迦三尊像は知的で、ストイックである。これよりあとの時代に深大寺(東京)に伝わる素朴な白鳳仏がつくられたとする定説は誤りである。理性的に考えれば、「素朴な美しさ」から「写実的な美しさ」へ、そして「精神的な美の表現」へと移り変る世界共通の美意識の史的変化が、日本においても起こっていたというあたりまえの事実である。時代区分と関係の深い美術史学を中心とする歴史学の認識が新たにされよう。
 『万葉集』の解釈を再検討する必要性の一例は次に示すが、『源氏物語』など他の作品にも及ぶだろう。『万葉集』が朝鮮語で書かれているとする一群の著作が最近出版されている。この解釈がミッシングリンクの存在を知らなければ、起こり得ることは自明である。倭国の時代の日本語が朝鮮半島の人々に影響を与えていたのである。やがて東アジア史も再検討されよう。
 法隆寺西院伽藍が完成した和銅3年(710)に平城遷都が行われた。奈良の都である。万葉の歌人小野老朝臣は天平2年(730)頃、大宰小弐で、天平9年に大宰大弐で死亡している。土屋文明氏は『万葉名歌』で次のように述べられている。
 なお、奈良時代の栄華のさまは、時の人自身も目を見はったものと見えて、時代を祝う歌が幾種か詠まれている。一つは、
  あおによし奈良の都は咲く花の 匂ふがごとくいまさかりなり
小野老 (巻3 328)
 である。作者が大宰小弐として筑紫にいて詠じたものである。神亀の末か、天平の初めの歌であろう。(中略)この歌も譬喩が幾分一般的すぎるが、こういう形式を主とする歌では、まずこのくらいのものになるのではあるまいか。

 672年の壬申の乱から60年近く過ぎた、跡形のなくなった大宰府都城にあって、(倭国の諸建物を移築して)今が盛りの奈良の都と対比しての歌であることは明らかである。知識人の無力感が漂っていると言ったら過言であろうか。この歌一つを取り上げても『万葉集』は全く解釈を異にすることは明らかであろう。『万葉集』を順次読んでみたいと思う。

 仏教史が見直されるべきことを述べたが、仏教そのものの理解も再検討せざるを得まい。民衆の信仰の方が、書物で述べられる仏教の世界よりはるかに真摯である。聖徳太子の「十七条の憲法」は明らかに上宮法皇がつくられた七条と、のちに大和朝廷が付け加えた部分で出来ている。仏教に造詣の深かった上宮法皇のつくられた七条には世俗にある仏教者の生き方が示されている。
 その他音楽、芸能、風俗、交通とあらゆる分野に及ぶであろう。
 ところで、かつての考古学の発掘では、報告書は研究者の評価を経た内容が記されていて、その研究者の他の著作を参考にその全体像を把握することが可能であったが、最近は発掘の数が多くなったためか、機械的な報告書が多い。データは最大漏らさず記録すればよいという姿勢である。コンピュータの普及によるものであろうか。発掘は現場に携わった人のみが、その内容、意味を正確に把握できる。発掘はある意味では文化遺産を壊す行為であるから、破壊と見合うその担当者の見解の入った報告書が作られる事を望みたい。
 美しい日本の国土は、過去の日本人によってつくられたもので、自然に出来上がったものではない。不用意な建設によって利益と新しさを得ることはできようが、千数百年という歴史は失われる。国土開発行為は必要性があって行われていることは明らかであるが、新しい事態に照して再検討されることを望みたい。
 1988年7月に全体の構図が見えた時、その「悲劇」を書こうと思ったことに始まる。見えた構図を文章化したいと言うことにつきる。その第1回分であり、完成には10年を要するかもしれない。この構図をどのように感じられるかは読者自身に関わっている。常識というのは不思議なもので、異なった見え方の存在すら気付かせない。しかし異なった見方を知ったとき、人は変化を止めることは出来ないであろう。

新版を出すにあたって

 最初に出した私家版には次の記述があった。

 岩石のX線回析
 すでに基壇の項で述べたように、法隆寺の基壇の解体で発見された石組みの法則性が、観世音寺の基壇の石組みの方法であったのである。ところが修理報告書には基壇の石材が大和の二上山の凝灰岩であると報告されている。しかし、論理の導くところは石材は九州阿蘇山の凝灰岩である(当時の石材の産地である播磨国の竜山石である可能性も否定はできない)。
 間壁忠彦・葭氏が古墳の石棺の研究で用いられた岩石のX線回析の手法を用いて、基壇の石材の産地が明らかにされる日が早く来ることを願わずにはいられない。
 私家版は当時の法隆寺建築の研究者の主だった人に読んでもらっている。修理工事の棟梁であった西岡氏にも読んでもらい、工事の詳細について、現場の人でないと知り得ない内容を聞くことができた。その場では工事の中で移築を示す証拠は何もなかったと述べられたが、後日、近い将来に移築説が認められるだろうという内容の手紙を頂いた。
 また太田博太郎氏から修理工事の中心であった浅野氏に会って話すのがいいとの助言を受け、自宅を訪れた。その時、岩石のX線回析をするため、耳掻き1杯分の資料の採取が出来ないものかと相談したが、工事中なら出来たが今は不可能だと取り合ってもらえなかった。