2.建築から古代を解く
建物は古代をときあかす記録の宝庫である
法隆寺・観世音寺・三十三間堂に刻印された記録を読み取りながら倭国の文化と、聖徳太子の原像を描き出す。
はじめに
法隆寺は、現存する世界のどのような建築とくらべても、遜色のない美しさを備えている。その建物が、有史の最初に造られたとするのが、わたしたちが教わる日本の歴史である。
しかし、現在の建物が607年に造られたとする寺に残る一連の記録と、670年に全焼したとする(つまり、現在の建物は670年以降に再建されたことになる)『日本書紀』の記録が、矛盾して存在している。そして、この矛盾を解くための論争が、明治20年代から現在に至るまでつづいている。
残っている数少ない記録をもとに、考えられるかぎりの解釈が加えられながら、いずれが真実なのか明らかでない。今をさること1300年以上のむかしのことであり、解決しないままにする以外にないのだろうか。
けれども、記録はそれ以外にないのであろうか。
たとえば、炭素の放射性同位体C14によって考古出土物の年代を特定することができる。C14が記録の役割を果たしているわけだ。文献だけが記録ではないのである。建物についても同様の「記録」がある。
法隆寺の建物は、それを建てたいという人がいて、設計され、つぎに山に入って木が切られ、乾燥し、大工によって加工され、組み立てられ、瓦が乗せられ、壁が付けられ、そして絵などの彩色や金物がとり付けられたのだ。
このような仕事の流れは変えられない。そして、その作業は10数年にわたってつづいたのである。つまり、造る順序とその作業に要する時間の組合わせ――建築実務では工程というが――それは建物に個々に存在している。
昭和年代におこなわれた法隆寺の解体修理工事で、建物のこの工程のなかに絶対年が書かれていたことが明らかになっている。ひとつは、五重塔心柱の年輪が刻む年[591年(後に594年と確定)]であり、ひとつは、現在ハレー彗星と呼ばれる彗星出現(617年)を記録した落書である。
つまり、法隆寺の建物の工程が、600年前後におこなわれた記録とみることができるのである。これは、建物という実物がしめす記録であり、文書以上に確実な資料と考えられる。
建物は高価であり、歴史に残る建物は、とくに権力と深く関わっている。読みとれるかどうかは別にして、建物には種々の記録が刻まれる可能性があるのである。工程は、その記録の一部であることはいうまでもない。建築は記録の宝庫なのである。
わたしが建築から引き出した記録は、歴史における常識とか、学者によって説かれる説をことごとく否定する結果となっている。わたしは建築に残された記録を解読しながら、なんとも表現のしがたい不安に何回となく陥った。
論を組上げることに熱中し、時にわれに帰ると、梯子をとられた不安のなかにいる自分をみることとなった。誤っているのではないかと、論理をくり返し検証することになった。この著作は、その論理性の追求がすべてであるといって過言ではない。
本書を読んでくださる方々も、わたし同様に奇妙な感覚にとらわれることになるかもしれない。歴史にくわしい人ほど、その感覚は大きいだろうが、願わくば、論理性という地点に立って、内容を判断していただきたい。
過去にあった事実の結果として現在があるという真理、古代と現在を結ぶ糸の上に、この本の内容のすべてがあると考えている。一般にいう古代史ではなく、現在学として。
目次
Ⅰ 法隆寺の謎
玉虫厨子と金堂の深い関係
法隆寺建築に使われた物差し
西院伽藍の変遷
裳階はなぜ付けられたのか
夢殿も移築された
Ⅱ 観世音寺の謎
抹殺された俀国と観世音寺
よみがえる観世音寺遺構
伽藍からみた法隆寺と観世音寺
Ⅲ 三十三間堂の謎
三十三間堂とはなにか
三十三間堂建築の時代性
観世音寺大房から三十三間堂へ
三十三間堂移築の痕跡
二種類の符牒
Ⅳ 聖徳太子の謎
俀国の阿弥陀信仰
聖徳太子か上宮王か
『法華義疏』と上宮王の生き方
造作された十七条憲法の原型
Ⅴ 建築史学批判
学者の説と技術者の説
法隆寺再建非再建論争の前提
あとがき
前著『法隆寺は移築された』を書き終わったとき、法隆寺についての主な問題はすべて言い尽くしたと考えていた。
しかしその後、読者から、つぎの二点の誤りを指摘された。
① 観世音寺絵図に描かれた中門の桁行の柱間は5間である。
② 妙心寺鐘の陽銘の「戊戌年」は698年である。
①は、『大宰府』(鏡山 猛 著)の写真を見て、4間と確信するという誤りを犯しており、まったくの私のミスである。②については、私は、壬申の乱で俀国は完全に消滅したと考えていたため、60年繰り上げた638年としたが、「戊戌年四月十三日壬寅」は698年以外になく、これも私の誤りである。幸いこの二点は、移築論の論旨を崩すものではなかったが、訂正させていただきたい。
さて、これらを確かめるため、根本から観世音寺を調べ直すこととなったが、その結果思いもよらぬ発見をし、その展開をここに示せることとなったしだいである。さらに展開の三分の一については、話が飛躍しすぎていたので除いており、別の機会に発表できればと思っている。
私の法隆寺移築説にたいして、建築史学界の反応は現在のところ皆無である。それに加えて読者の指摘がなかったとすれば、この本が生まれることはもちろんなかったであろう。きびしい指摘に感謝せざるをえない。
常識と異なる歴史に挑戦しながらも、みずから犯してしまう独断と偏見に、読者のきびしい目が注がれることを願う。市井の研究者にとって、針路を誤らぬ術は、ほかに求めることができないのが現状である。
最後に、この原稿に1年間つきあっていただいた新泉社の竹内将彦氏に感謝の意を表したい。
(1993年10月6日)