3.列島合体から倭国を論ず
地名や文化の伝播で列島合体を検証し倭国の博多を復元
糸魚川静岡構造線で西日本と東日本が合体したのは四千年前だ。この時、三内丸山は壊滅し、温暖な気候も終わった。この衝撃から耐震技術も発達している。
はじめに
1997年10月31日締切りの国際コンペ “21世紀・京都の未来” に論文で応募した。①50~100年後を目途とした21世紀の京都のあるべき姿の提案と、② その実現のために取り組むべき具体的方策の提案の両方が求められた。また別に2000字以内の要旨の要求があり、私のそれは以下である。
都市とは人間の英知が作り出したものである。その位置するところの風土はそれぞれに異なる。風土を克服した都市の形態には個性があり、人びとを魅了する。しかし現代の科学技術は、風土の違いを乗り越えた現代都市という共通した形態を生み出しつつある。都市の没個性化が進むなか、建築家は建築の形態操作に没入しがちである。そしてこれまでのところ形態操作から未来の都市が見える気配はない。
1994年のノースリッジ地震は大きな被害を出した。しかし日本の建築界は微動だにしない。耐震工学者は絶対の自信に溢れていた。地震国と呼ばれる風土を克服した技術を持つと。巨大建築、超高層ビル、原子炉はその最先端を行く技術により造られる。すべては安全であると当然のことながら信じ込んでいた。
1995年阪神大震災が起る。結果はご存じの通りだ。その中で芦屋浜の高層住宅の鉄製の柱が真横に切れたことが最大の問題を投げ掛ける。建築の最先端の技術を駆使して造られた特殊な建物だからだ。切断を脆性破壊と判断している場合ではない。学問の基礎から問題としなければならない事態である。地震国と呼ばれる風土を克服したとはとても言えないのである。
核シェルターという概念は一般的である。地中深く核爆弾の爆発から逃れるための空間である。地震の場合、中国の唐山地震でも明らかなように地中の空間は論外である。しかし地上の建築は、地震に対して安全な空間を提供する必要がある。建築のシェルターとしての意味合いは、風雨や外敵は言うに及ばず、地震に対しても安全な空間を確保しなければならない。耐震工学の本来の目的はそのような建築を造ることであろう。
ところが阪神大震災の結果は別にしても、地震による建物の被害は容認されている。気象庁の震度階級ではⅤ(強震)で壁に割れ目が入り、Ⅵ(烈震)で家屋の倒壊は30%以下、Ⅶ(激震)で家屋の倒壊が30%以上とある。大きい地震が来れば、大きい被害が出るのは当たり前だという感覚である。まずここから変えなくてはならない。
船はボートから巨大タンカーまでいろいろな種類のものが造られる。どのような荒波にも耐えられる船を造る技術がある。一方、建築は地震波という大地の荒波に浮かんでいると捉えることができる。とすれば技術の可能性があるではないか。大地に接する建物の足元を工夫すれば、この荒波に浮かび得るのではないか。
科学技術の歴史は簡単な機構を取り上げずにきた。水平な床の上に置かれた球、その上に乗る玉乗りの機構である。球がどのように動いても玉乗り部分から見れば球との関係は常に不変である。この機構を用いれば地震波という大地の荒波に浮かぶことができる。つまり地震の被害を受けずに済む。特筆すべきは、震度Ⅴ、Ⅵ、Ⅶと大きくなろうとも、水平力は球の回転によって抜けて行き、玉乗り部分に伝わらないことだ。
この機構は日本建築の礎石造り建物にも備わっている。木の丸柱の下にバーチャルな球体が存在する動きをする。民家の玉石造りも同様の造りである。日本建築が地震の被害から免れてきたこと、耐震技術が備わっていることを理解しなければならない。
京都はこの機構を基本とした耐震技術によって建物を建てることから始まる。そして大切な日本建築は壊すことなく、後世に残さなければならない。2100年には地震の被害を心配することのない京都が出来上がる。新しい建物群が雲海に包まれ、21世紀の洛中洛外図が出現する。
第1章はこの応募論文である。2万字以内という制限があり、言いつくせないところが散見される。字数の関係で、歴史に関わるところは論理の組み立てを優先して、言及するところを最小限に止めている。
第2章は応募論文で述べた、日本列島の合体という見解を、暘谷論として取り上げた。発端は三内丸山遺跡が周辺にある同様の遺跡と異なり、住んでいた人びとが1500年(5500年前から4000年前まで)でそこを放棄したことについての疑問であった。
第3章には博多を取り上げた。博多は古代の歴史の中心に位置すると思われるのに、その状態、変遷がほとんど知られていない。良く知られる法隆寺五重塔の落書きを調べるうちに、倭国の博多を復元することが可能となった。
最後第4章に吉野ヶ里を取り上げた。吉野ヶ里遺跡は当時を復元した建物などが建つ遺跡公園として整備されている。しかしその復元は余りにも発掘事実が示す内容と異なっている。遺跡発掘の結果と『日本書記』、『風土記』、『万葉集』、『源氏物語』をもとに新しく復元を試みる。
以上がこの本の構成である。
目次
第1章 21世紀・京都の未来(地震論)
1 洛中洛外図の京都
2 新技術の本質を問う
地震とは何か 日本列島の形成 大地の上の存在
歴史と科学の関係 三内丸山遺跡 法隆寺五重塔
具体的なプロジェクト
第2章 暘谷論
1 暘谷
『山海経』 『書経』の文 書疏の文 『漢書』司馬相如伝
2 暘谷海の復元
地名からの推察 文化の伝播から 大型特殊石錘
暘谷海に関する科学的データ 『富士山歴史散歩』を読む
西日本地図 定説の検討
3 4000年前の日本人像
考古学の成果 文献・地名に見る
4 列島合体
第3章 博多論
1 大鷦鷯の帝
法隆寺五重塔の落書き 仁徳天皇 博多古図 大土木工事
2 『魏志』倭人伝
奴国 行路記事 狗奴国・朱儒国
3 『源氏物語』
明石の君 須磨・明石 玉鬘
4 『万葉集』
5 近江
逢坂の関 近江の海 内海の多様性
6 祗園祭り
鈴鹿 京都祗園祭り 博多祗園祭り 沙弥満誓
7 桂離宮
桂殿 京都桂離宮 桂別業図 尺度論
第4章 吉野ヶ里論
1 『日本書紀』の構造
2 吉野宮
3 吉野川
4 吉野ヶ里
5 『肥前国風土記』 『万葉集』他
6 伊勢神宮
序論
昨今文化人の中で、日本は無条件降伏をしたのではないと言う人がいる。太平洋戦争、第2次世界大戦の結末についてである。そしてこの発言は悪い方に影響を与えることがあっても逆はないと思われる状況である。日本人が自立をすると言うことから捉えれば足を引っ張る発言である。文化人の倫理観が壊れかけていると受け取られかねないからだ。
また日本共産党は「我われは太平洋戦争に反対をした。無条件降伏で負けたけれども、講和条約を結んだから日本は独立国だ。戦争に反対した我われに無条件降伏の責任は無い」と。
文化人にしろ、日本共産党にしろそのような考えがアメリカに通用すると思っているのだろうか。日本人が自立しようと思えば、アメリカと戦争をして勝つ以外に無いのである。
講和条約は表面上の内容の裏に条件がついているはずだ。なにしろ無条件降伏なのだから。日本は無条件降伏後、現在に至るまでアメリカの占領下にあることは言うまでもないし、今後も続くだろう。そのことが一番明らかなのが米軍基地の存在である。
現在沖縄の米軍基地が問題になっている。後述するように沖縄は特殊な背景があるのだが、占領者の意思はあっても、被占領者の意思があり得ないことは明らかである。無条件降伏をした日本の一員であったことは日本共産党を含めて逃れられない事実である。
占領者としての権利はもちろん義務もある。後世批判が出るようなことは誰であってもしたくはない。しかし日本がアメリカと戦争をして勝つことは100%不可能である。とすると無条件降伏の状態を克服する術は見当たらない。アメリカ大使閣下が言われることが最重要である事態は当分つづくであろう。
私の考えのたどり着いたところは悲劇である。マッカーサー元帥は正しく判断したと思ったのだろうがそれは間違いであった。我われ日本人はアメリカに占領されて54年目、天皇家に占領されて1327年目を迎えるのである。アメリカが日本の文化と考えるほとんどのものは天皇家に占領される前のものである。1327年つづいた天皇制という奴隷制度は世界に類を見ない。天武天皇という人物が考え、実行したからくりは誰にも見破られずに今日に至ったのである。マッカーサー元帥も見破れなかったのだ。そして天皇家の存在を許したのである。
アメリカの占領の目的は究極この悲劇の解消にあったはずだ。それが逆に更なる枷を加えたのである。占領の目的が完成するまでは占領者に責任が存在するはずである。しっかりと目を見開いてもらいたいのである。
昨今の遺跡調査で発見される事柄はこれまでの日本の歴史の常識では説明ができないことが多い。またもっともらしく説明される誤った解釈が横行していると言ってよい。どうしてこのようになったかだが、日本の歴史学者やアメリカの日本研究者が扱った基礎史料は、ほとんどすべてが天皇家の目を通っているということにある。その史料をストレートに信じれば、天皇家の器の中から出ることは不可能である。この枷から飛び出すためには、建築という記録装置は読み解く以外にないことは、『法隆寺は移築された』や『建築から古代を解く』(共に新泉社)に述べてきたところだ。基礎史料もその記録を元に、根本から冷静に判断する必要があるのだ。
ここで日本の歴史の時代区分に一つの提案を試みたい。人間が環境に対してどのように関われるかという視点からの区分である。このような視点が成り立つのは世界の中で日本だけかもしれないが、地球上の一点で起っている地球の出来事である。この内容について詳しく述べる本論から真実を知ってもらいたいのである。
最初は4000年前までで、海洋倭人文化の時代と名付けたい。後述するように4000年前に、東日本と西日本がフォッサマグナで合体している。その列島合体時までの日本である。火山の噴火や大陸の接近という変化はあったが、太平洋上の群島であることは不変で、この文化は三内丸山の都市環境を造りあげている。自然との関係は素直で、住み良い環境が人間の努力によって造られ、完結していたものと思われる。土器、漆器、装飾品、衣類、道具の製作を行い、航海技術や漁業に長け、稲作や野菜、果物の栽培を行い、神道や儒教が成り立っていた。東日本と西日本の文化はそれぞれに確立し、やがて暘谷海(フォッサマグナ部分)を中心とする文化に収斂していったと考えられる。暘谷海は土石流で埋まってしまったが、三内丸山の遺物から分かるように高度に完成した文化であった。
日本人の衣食住に対する特殊な価値観はこの期に長い年月をかけて作られたものである。「衣」については、家の中では裸足の生活をする、「食」については、生魚を好んで食べる、「住」については、夏を旨とした開放的な住まいで生活するという価値観である。海洋を抜きにしては成り立ち得ないことは明らかだろう。
次は672年までで、倭国列島文化の時代と名付けたい。合体によって暘谷海という文化の中心を失ったことはもちろん、地殻変動による火山の噴火や地震、そして延えんとつづく余震によって完成した先の文化は崩壊してしまう。さらに激しい寒冷化によって文化そのものが意味を失ってしまう。日本海はもちろん沿海州の環境も激変した。海洋倭人文化の時代の恵まれた環境が喪失したところから始まったのだ。唯一自然が与えたのは四季の日本である。2000年近い地殻変動期を経て北九州に倭国が成立し、耐震技術を備えた建物が造られるまでになる。卑弥呼、臺与の女王の時代を経て、400年頃には近江の海(人工環境)が造られ、418年には列島が倭国として統一される。神道と儒教の世界に仏教が伝わり、阿弥陀、上宮王が出現し、仏教王国が成立する。倭国の国史、風土記、万葉集、源氏物語が作られる。雅楽、能、狂言などの芸能が確立する。絵画、彫刻、建築、土木の技術が優れた環境を造り出す。「それぞれの道に励む人びとの実力が世間から認められる時代」(『源氏物語』)であった。
次は1945年までで天皇日本文化の時代と名付けたい。672年、騎馬民族征服王朝である天皇家は後に壬申の乱と呼ばれる侵略戦争によって倭国を滅ぼす。『古事記』、『日本書紀』という虚構をもとに、建物を移築し、地名を移し、住民を移動し、『風土記』、『万葉集』、『源氏物語』を天皇家用に捏造した。支配は現代日本人には想像できない非情で完璧なものであったようだ。ちなみにこれらを明らかにする手立ては解体修理工事の調査、発掘調査、赤外線写真、航空写真を待たねばならなかった。日本人は虚構の環境の中で虚構の生活を強いられ、天皇家の奴隷以外の何者でもない(*1945-672=)1273年を過ごしたのだ。倭国を支配したいという天皇家の行き方を国父である阿弥陀が許したこと(捨身飼虎)に従って、日本国民は奴隷生活に甘んじたのである。
次は現在までで、米国日本文化の時代と呼びたい。日清、日露戦争、満州事変、太平洋戦争と天皇家の野心以外の何者でもない戦争に駆り出され、最後は無条件降伏である。米国は天皇家を許すという誤りを犯した。そして今、日本人は二重に占領される悲劇の中に54年目を迎えている。
天皇家の占領が始まって56年目の728年に大伴旅人が次の歌を歌っている。
万 793 世の中は空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり
ところで沖縄の特殊性とは何であるかを述べておこう。それは1609年に薩摩が武力で制圧するまで琉球国として独立していたことである。636年の『隋書』には琉球国の独立した記述がある。津軽、秋田などのように独立国ながら倭国列島文化に接していた国の一つであり、「やまとんちゅう」の「やまと」は九州の「邪馬臺」を指す言葉である。後に京都から来た者が伝えた芸能は京太郎と呼ばれ、「やまと」と区別されていることに示される。琉球国が新しく交流を求めたのは、日本国ではなく倭国だったのである。
沖縄は天皇家の支配に入って389年目を迎えている。
(1998年8月15日)
おわりに
列島合体という論理の構築の原点に次の表があったことを記しておきたい。辻誠一郎氏が作られた「埼玉県川口市赤山陣屋跡遺跡と周辺大地における縄文海進以降の植生変遷、環境変遷史における環境の急変期(画期)・時期区分、およびテラフ層序。[ ]内は主要素、( )内は局地的要素」である。縄文海進のことは置くとして、約6300年前の鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)降灰のころ、谷が海から隆起して出来ている。その頃は亜熱帯の植生であった。そして4000年前に気温が一気に下がり、現在に続いていることをこの表は示している。火山灰(テラフ)が年代の正確な物差しとなっており、E3の画期を定めている。関東平野でこれだけの植生変化を起こさせた気温の変化なのだ。東北地方の日本海側や北海道ではさらに大きい温度差を引き起こしたことは明らかである。
卑弥呼は鬼道に通じた巫女であったし、天照大神と崇められる人物であったことはすでに説明した通りだ。一方狗奴国の王はすでに卑弥呼が有名になってから生まれた可能性がある。男王で、卑弥呼に対して卑弥弓呼と言う。どうも卑弥呼にあやかった名前が付いたと思えるからだ。倭人伝には「女王に属せず」とあり、後に倭国と戦争をし、老齢であった卑弥呼の死の原因となった可能性もある。九州で見つかる小銅鐸が狗奴国へ伝わり、それを元に銅鐸文化を開花させた不思議な力のある国である。
平成8年8月8日に岐阜県養老町教育委員会は同町の「象鼻山一号墳」が3世紀後半に築かれた前方後方墳であると発表した。一号墳は象鼻山(標高142m)の頂上にあり、全長40m。富山大 宇野隆夫教授(考古学)によると、前方後方墳の起源は濃尾地方と推定されてきたが、今回の発掘はこの学説を裏付けるものと言える。また、この時代、西の邪馬台国と東の狗奴国が対立していたとされており、この古墳が狗奴国の王の墓である可能性も出てきたという(朝日新聞)。
卑弥呼の死は247か、8年で、卑弥弓呼の死が3世紀後半でぴったりである。墓の大きさは、卑弥呼のものと卑弥弓呼のものは共に全長40mである。卑弥呼の墓は象山と呼ばれ、卑弥弓呼の墓は象鼻山にある。卑弥弓呼は偉大な倭国の女王卑弥呼を一生気にしていたのかも知れない。
イエズス会宣教師ルイス・フロイス(1532~97年)は35年間の日本での布教に努め、長崎で生涯を終えている。織田信長に会った人物で、『日欧文化比較』を著している。「第11章 家屋、建築、庭園および果実について」で次のように述べている。
「我われの家は地下に基礎を築く。日本のは、それぞれの柱の下に一つの石を置く。その石は地上に置かれる」。
ポルトガル人であるフロイスは木造の住宅の柱がすべて石の上に置かれるのが不思議であったようだ。フロイスの観察から戦国時代の日本の住宅は完璧に玉石造りになっていたことが分かるのだが、明治維新の文化開化の波はこの技術を捨てさせたのだ。現代日本人の多くは、すでに民家における玉石造りを知らない状態である。不思議に思われるかもしれないが、現在の建築学の講義でも石の上に柱を立てるのは湿気を防止するためと説明されるのである。地震のないヨーロッパから来たフロイスが玉石造りは耐震技術であると気付かなかったのは致し方ないのかもしれない。ヨーロッパの家は地下に基礎を築くと捉えており、建築について無知ではないが、玉石が地上に置かれ、その上に柱が立てられることは理解を越えていたのであろう。日本の現在の耐震工学者はフロイスに近い価値観を持っていると言ったら言い過ぎであろうか。
近畿地方にあった奈良時代以前の寺社建築はほとんどが崩壊しており、倭国から移築した寺院、寺社、宮殿建築などは礎石造りであったから、奈良時代からの日本建築はすべて礎石造りである。唯一の例外は伊勢神宮で、掘立柱建物で20年毎に建て替えられている。倭国にあった時点の伊勢神宮は、吉野ヶ里の段階ですでに礎石造りであったことは本論で述べた。伊都国に移った伊勢神宮も、もちろん礎石造りであっただろう。このように見てくると伊勢神宮の建物を掘立柱にし、20年に1度の遷宮というシステムまでセットにした裏には、重大なメッセージが隠されていると考えて間違いあるまい。つまり掘立柱建物にすることによって、伊勢神宮の大和朝廷化が成されているのではないか。
出雲が栄えた時期に越から土木技術者が来て、溜め池を造ったことが『出雲国風土記』に見える。『日本書紀』の大八州国を造られた神であるイザナミの尊のときのことだと言う。大和朝廷は今から二千数百年前に日本国の歴史のスタートを定めている。その時点のことだと記されている。国生みの段階で、越から土木技術者が来たという矛盾である。が、しかし日本列島の合体の4000年前を基準に考えると、1300~1400年後である。フォッサマグナ周辺は敷石住居を生んだ微振動が収まって、人心も落ち着く時期である。ただ箱根や富士山はこの後さらに噴火や地震を繰り返すのだが、全体としては一段落したと言える。越の人はそれまでの地震との戦いで優れた土木技術を身に付けたようで、その技術が買われた話とすれば歴史の記録である。今日の富山人の持つ土木技術に通じるものかもしれない。
最後になって新しく見えたものがある。博多の復元のために用いた弘安年間の図はかつて新書本の中表紙からコピーしたのであるが、奥付を取らなかったためその新書を探せなかった。そのため博多関係の本を漁り、『石城志』(1765年)に収録されている古図であることがわかった。しかし博多の百科事典の名前が『石城志』とは不思議な書名である。知る人ぞ知る本の一つなのかも知れない。ところで博多の海岸にある石垣は元冦に備えて造られたと、歴史の時間に教わった記憶がある。だがその古図には「前浜築石」と「弘安の頃石垣改築」と書き込まれている。また『石城遺聞』の「博多石塁起源の事」には「博多石塁の事、筑前続風土記に上代よりありしにや、弘安の時修補せしやとありて、その起源不詳」とある。つまり弘安以前に石垣が造られていたことを示す記録である。翻って海に堤を築くことを考えれば、波に洗われる面が石積みされることは当たり前である。400年頃の工事の時から石垣は有ったのだ。沖の浜、長浜が海の中に築かれた石の城だという意識が、1760年代まで受け継がれて来たことを『石城志』が示しているように思われる。
(1998年8月15日)