4.逆賊磐井は国父倭薈だ
 倭国倭薈は倭の五王の後継の賢帝である
  倭薈は逆賊「磐井」として『紀』に記録され、継体に滅ぼされた王である。天皇家により倭国から略奪され、奈良に移築された三寺を素材としてまぼろしの倭国の全体像に迫る。

はじめに

 『日本/権力構造の謎』を著されたウォルフレン氏は今年3月に『なぜ日本人は日本を愛せないのか』を出版された。その中で次のように述べられている。

 私はさきに、日本の私の友人の一部は、「日本にはまり込んで動けない」という感じ、つまり、カプセルに閉じ込められ、そこから逃れようがないという感じをもっているように見える、と書いた。(中略)
 日本人のこの感じ方は、思想というものの強い影響力を示す一例である。というのも、日本人のこの感覚は、個人と社会の正しい関係を日本人が考えるさいの、その考え方一式から生まれてくるものだからである。そして、その考え方は、日本以外の国の人々が個人と社会の自然な関係を考えるさいの考え方と、いささか違っている。
 この問題は、人間の自主性というもっと一般的な問題とからんでくる。1人の人間は、どの程度まで、自分自身でいられるのか。どの程度まで、社会の要求の産物なのか。どの程度まで、社会の他のメンバーに依存しているのか。
 西欧はもとより、アジアのいろいろな社会に住んだ私の印象を言えば、そうした問題は、社会が個人に実際にどれだけのことを要求しているかとは、一般に考えられているほどには、関係がない。人がどれだけ自主的でいられるか、すなわち、人が世間から独立できる度合いは、人の頭のなかで決まるのである。

 氏の分析の鋭さは最初の著書からも明らかだが、ただ日本の歴史についての認識には誤りがある。その結果、日本人の感覚は人間として歪だと氏らしからぬ結論に到達される。もちろん歪みは歴史を背負った姿以外の何者でもない。氏が言われる人の頭の中で決まる本来の主体性は、偽りで塗り固められた歴史のなかから生まれることはない。単純なことだが、真実の歴史を知ることによって日本人は容易に普遍性を取り戻すことができるだろう。
 日本の歴史学の根本的な間違いを氏の責任にするのは酷かもしれない。が、日本を対象に論を立てるのであれば、日本の歴史学の解釈に誤りのあることを指摘する論理の構築が期待される。氏が以下の認識に立って論じられる日本論を見たいのである。
 <1998年の日本は、天皇家に占領されて1327年目を迎える。世界に類を見ないこの奴隷国家の現実がこのあとどのぐらい続くかは米国と天皇家の良識に待つ以外にない。米国の占領を示すものが米国基地の存在であるのに対して、天皇家のそれは市民の中に姿を隠した軍の存在である。米軍の日本からの撤退は天皇家とその軍の撤退が前提となることは言うまでもない。それは54年間に亘る日本国占領者の責務である。>

 現在の日本の歴史学は残念ながら日本の歴史を解明する力を持っていない。『法隆寺は移築された』(新泉社)で述べたように、実証主義の学者さえ金石文や古文書が捏造されているという視点を持ち得ないでいる。虚偽の歴史を成立させるために、天皇家が捏造した字面を解釈することに終始しているのである。大和朝廷は672年の征服完了当初から金石文と古文書があれば学者をコントロールできると考えていた可能性がある。つまり大和朝廷の創始者天武天皇は現代の学問より先を走っているという認識に立たないと日本の歴史は解明できないのである。

 倭国滅亡後隠されていた倭国の文化財の多くが、鎌倉時代になって陽の目を見ている。立派な物であっても(大和朝廷の)監督が厳しく、倭国の時代のものでないと判断できなければ、その文化財を残せないという状況であった。残すためにあらゆる工夫を凝らしており、現代の学者もその文化財を鎌倉時代の作品として憚らない。その一例を取り上げてみる。
 鎌倉時代の初期、1198年に宋国から伝えられたとする、福岡県の宗像神社に伝わる阿弥陀仏経碑に関する原田大六氏の優れた研究(『阿弥陀仏経碑の謎』(六興出版)がある。
 この碑を測定したのは1817年の梶原天均と原田大六氏で表2のような計測結果である。
 著者不詳の『宗像軍記』は「五 宋朝ヨリ石仏ヲ渡スコト」に、
 「石ノ長サ四尺八寸、横ノ広サ二尺五寸、厚サ九寸ノ青紫色ノ石也。其表ニハ無量寿仏ノ尊像ヲ彫付タリ。裏ニハ阿弥陀経全部ヲ彫付タリ。ソノ製作善尽シ美尽セリ。長ノ尺数ハ六八四十八願ノ数ニ表シ、横ノ尺数ハ五々廿五菩薩ニ表シ、厚サノ尺数ハ三々九品ノ浄土ニ表セリ
と記し、貝原益軒は『筑前国続風土記』にこれを引いている。表2の中段の数値である。
 また梶原天均は『宗像軍記』が、
 「強テ表相ニ合センコトヲ欲シ」
とでたらめな寸法を記していたことを怒り、それを踏襲している貝原益軒の、
 「続風土記トイヘドモ此説ニ本ヅキテ、其誤ヲウク、況ヤ其他ヲヤ」と記し、『宗像軍記』の仏法に合わせた寸法の化けの皮を剥ぎとったと紹介している。
 そして原田氏自身、
 「もともと、『四十八願』も、二十五菩薩も、九品の浄土も、それらは浄土における観念世界のことで、現実の石碑の寸法に具現できることではなかった」
と結論されている。
 阿弥陀仏経碑は「正面に定印の阿弥陀仏座像を、えぐり取った円形光背の中にレリーフしている。その上部に横に六字の名号と『無量寿経』の第十八・第十九・第二十の三願文を陰刻している。背面には『阿弥陀経』全文と『往生浄土呪』が四段に陰刻されている。更に正面両袖に原銘、両肩及び両脇九か所に追刻銘が彫りつけてある」。原田氏は傍線部分の原銘、追刻銘を徹底して読み、阿弥陀仏経碑は1189年に亡くなった宗像氏実の追善碑であると結論しておられる。
 しかし私は原銘と追刻銘は倭国の時代の石碑であることをカムフラージュするためのもので、原田氏の解読はその通りなのだが、これらを除く部分が本来の石碑であったと考えるのである。『宗像軍記』の4.8尺、2.5尺、0.9尺が倭国の尺で書かれているとすると、倭国の1尺は0.281mで、曲(かね)尺の1尺は0.303mだから、0.281÷0.303=0.927倍すれば、曲尺の尺数となる。
   4.8×0.927=4.449・・・4.45尺
   2.5×0.927=2.317・・・2.32尺
   0.9×0.927=0.834・・・0.83尺
幅に関しては梶原天均が測った裏面下の寸法と一致する。高さも断面図のAの寸法は4.45尺であり、厚さもBの寸法は0.82尺である。石仏は蓋や台座を除いた本体そのものを指していたのである。(図2)そのことは『宗像軍記』の記述が、蓋や台座について何も触れていないことに現れている。倭国の尺度で測れば、『宗像軍記』の数値通りの石を加工して作っていることがわかる。大きさに意味を持たせた言い伝えは正しかったのだ。とすると石碑の製作が倭国の時代に遡ることになる。この石碑の意味については本論の中で詳しく解くが、製作年代が500年以上も遡るとその持つ意味が根本的に異ならざるを得ないのである。

 この例から分かるように根本的な見直しが必要なのが、一般に説かれる日本の歴史である。その歴史を踏まえて組み立てられたウォルフレン氏の論が矛盾をはらんでいることは容易に想像が付くであろう。氏はまた会沢正志斎の次の説を引かれる。
 「一般庶民には国家のルールが厳然と存在することを認めさせ、そうしたルールが彼らにとってよいものであることを理解させよ、だが、そうしたルールがいかなる内容のものであるかは彼らに知らせるべきではない」と徳川幕府の政策の中にあったと説明されている。
 この「ルール」を「文化」に置換えると大和朝廷の統治の方法になる。会沢正志斎の説は徳川幕府の政策だけではなく、日本統治全般に用いられた手法なのである。

 『日本書紀』の天照大神、仁徳天皇、聖徳太子は架空の人物であり、実在の倭国の卑弥呼、倭讃、多利思北弧をモデルとしている。中国正史が詳しく記すことのない卑弥呼のカリスマ性のみを大きく取り上げたのが天照大神であり、『列島合体から倭国を論ず』(新泉社)で述べた日本列島統一を成し遂げた倭讃の善政のディテールを取り上げたのが仁徳天皇であり、『建築から古代を解く』(新泉社)で述べた仏教王国の王であった多利思北弧の本質部分を稀薄にしたのが聖徳太子である。
 これら実在の人物の全体像の一部を切り取って大和朝廷の歴史に組み込み、不要のものは消している。全体像を知る手掛かりはほぼ抹消されていると言える。
 中でも大和朝廷が本気で徹底して消したものは国父倭薈の存在である。『日本書紀』には逆臣磐井と記すのみである。現在磐井とはどのような人物かを質問すれば、良く知っている人で磐井の乱を起こした逆臣と答えるのが限界であろう。国父とはインドのガンジーであり、アメリカのリンカーンであり、現代中国の毛沢東である。その国での生き方・価値観を示した存在で、国民から父と慕われる。これに対して現代日本人は日本に国父がいたという表現すら初めて耳にする。それが何者かも、何という名前かも知る由もない。確かに奈良時代以前、500年代の人物を取り上げて、その人物が国父であると言っても信じ難いだろう。またその国父が現代日本人と結びつく存在であると理解するのは困難であろう。だがしかし、倭薈を知れば、我々日本人の精神の深層を形成する人物であると理解するのは難しくない。

 中国の正史『宋書』に遣使した倭国王の名が記される。421年の倭讃に始まり、珍、済、興そして武の5人の王で「倭の五王」と呼ばれる。倭薈は最後の倭武の息子として500年に生れ、11歳で倭国王となる。そして32歳の531年に大和朝廷の先祖である継体に殺害される。
 生前すでに大聖人であったと思われ、日の丸のイメージを具現化していた。因みに君が代は倭国王家を讃える歌として500年頃にはすでに一般に歌われていた。倭薈は死後、仏教徒から阿弥陀如来と呼ばれ、神徒からは八幡大神と呼ばれ親しまれた。入れ墨をした特異な王であったからか、ヤクザも八幡大神を祭った。
 また大和朝廷は継体天皇の先祖に倭薈をモデルとした応神天皇を置いている。倭薈を殺した張本人であることを悟られないための組み立てなのであろうか。『列島合体から倭国を論ず』で述べたように、『日本書紀』の編集に携わった元倭国文化人はこの組み立てを利用して、倭薈の生まれた年、王となった年などを正確に記録した。そして『日本書紀』後の日本人は応神天皇の名前を利用し、倭薈の業績を語り継ぎ、記録してきたのである。
 つまり国父倭薈は阿弥陀如来と八幡大神と応神天皇を足した存在である。生前の20年間は国王であり、大聖人として生きたであろう人物である。大和朝廷はこの人物の存在を日本人が知ることがないようにしてきたのである。

 倭讃の時代、418年に火火出見(神武)は近畿地方の狗奴国を征服する。これによって日本列島は統一されたが、その後、458年に若狭、福井辺に(南朝鮮を経由して)上陸した天皇家が勢力を増し、やがて近畿地方を勢力下に置いた。
531年の磐井の乱の継体軍6万は、天皇家の直属軍と主に元の狗奴国の人びとによって構成されていた。倭薈を殺された倭国民は怒り、悲しみ、継体軍関係者を畜生にも劣る者と差別した。当時のアジアからは倭薈のもとに多くの僧が集まっていた。そして彼らも同様に継体軍関係者を許せないと思い、自分の国に戻ったようである。
 しかし時間が過ぎれば彼等は許される。倭薈の教えが、たとえどのような人でも極楽に行きたいと思えば行けるというものであったからだ。乱後復興に始まる140年間が倭国文化の高潮期である。のちに大和の地に移築される薬師寺、東大寺及び法隆寺はこの期に造られるし、風土記、万葉集、源氏物語も出来上がる。乱の罪を許された天皇家は再び勢力を盛り返し、扶桑国を造り、672年に壬申の乱によって慈悲の倭国王家を滅ぼす。そして倭国王の地位に代わって座り、倭国民を統治する。統治の手段として磐井の乱後に行われた怒りの差別を復活し、被差別部落民を顕在化させた。旧倭国民の統治に対する不満を被差別部落民を置くことで解消させたのである。被差別部落民は672年の壬申の乱までは公式の天皇家の家来であったのだ。この入り組んだ差別の構造を理解しない限り、この問題の解決はない。
 また天皇家の大陸から行動を共にした直属軍は国外に移動した記録はなく、日本の中に配置されたことは明らかである。

 磐井の乱の時点と太平洋戦争敗戦時の日本の構成を図示すれば次のようになる。

 ウォルフレン氏がルールと呼ばれる内容は、日本の歴史の全体像に迫ることによってしか、説き明かすことはできない。そしてその重要な要素は倭薈という人物を措いてないのである。倭薈を知ることによって真の日本国の文化、倭国文化を知ることができるであろう。 日本人に衝撃を与えたウォルフレン氏には日本の真の歴史を踏まえた日本論のさらなる進化を期待したいのである。

目次

第1章 磐井の乱
    風土記逸文「磐井の墓」  「磐井の墓」の所在地
    「磐井の墓」の概要  倭薈最後の地

第2章 薬師寺
    東塔檫銘  『日本書紀』の隠された記述  
薬師寺東塔  東院堂  薬師寺絵図  薬師如来像他  
僧形八幡神像・神功皇后像・仲津姫像  『大日本地名辞書』
    虚空蔵寺跡  小倉の池廃寺・法鏡寺  既存の研究
    法隆寺の壁画  宇佐八幡宮放生会  小倉百人一首

第3章 長谷寺
    長谷観音  七大寺年表  銅板法華説相図  「磐井の墓」の墓墳

第4章 装飾古墳
    文献  磐井の墓の詳細  竹原古墳  山ほめ祭  五郎山古墳
    王塚古墳  大田古墳  珍敷塚古墳  水縄山麓古墳の奥壁画

第5章 東大寺
    東大寺大仏殿  『東大寺要録』  東大寺の移築
  『行基菩薩行状絵伝』  伽藍  大仏  倭国東大寺の復元
    小倉山東大寺の正体  『信貴山縁起絵巻』  来迎図

第6章 阿弥陀信仰
    奈良東大寺  天皇家の倭国征服の経緯  阿弥陀経

第7章 研究者に問う
    科学的手法の価値  暦年標準パターン  心柱と腕の木取
    法光寺の阿弥陀如来座像

第8章 錯覚
    中国正史に見る倭国の主食  三内丸山の主食  新関東大地震

序論

 倭薈の死は筑後国風土記逸文「磐井の墓」に次のように記される。
 「独自豊前の国の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき」
 この倭薈最期の地がどこであるかは古代史学者の興味を引かなかったようである。次章で述べる「磐井の墓」の存在場所がいろいろと論じられたのとは対照的である。最期の地は倭国の連続する歴史の中で聖地として整備されている。大分県宇佐市の一画に位置しているのだが、現状は聖地を示すものは地上には何もないと言って良い状態である。
 まず聖地の全体像と特異であった倭薈の風貌について話をしたい。と言うのは、部分を詳しく説明してもその全体像が無くてはイメージさえ歪んでしまいそうだからだ。さらに倭薈の風貌は徹底して消し去られており、特異な姿の再現は歴史探求の第一歩になると信ずるのである。まず結論を述べ、その後ゆっくりと説明することにしたい。

聖地小倉山
 侵略者である継体軍によって、西暦531年2月7日、倭国王倭薈は大分県宇佐市の駅館川西岸の小倉山(小高い丘陵)に死亡する。小倉山を中心とする法域が534年に整備される。小倉山を金堂に見立てた中心伽藍は、倭薈像(現在、奈良薬師寺金堂に安置される薬師如来像)が安置された堂(移築されて薬師寺東院堂となる)と塔(移築されて薬師寺東塔となる)と鐘楼が、その麓に並び建つ構成であった。また全体が見える駅館川の対岸には拝殿(字名として拝田が残る)が設けられた。神道を奉ずる人びとは倭薈を八幡大神として崇め、駅館川岸に八幡宮を設けたのだ(後に場所、内容を改変したのが字佐八幡宮)。倭薈を慕う人びとは、小倉山に追われることになった最後の足跡をたどり、追体験することで偲んだ(薬師寺にある仏足跡歌碑)。
 この侵略によって多くの人が殺され、葬られている。小倉山周辺で亡くなった人びとは倭薈と共に法域の中(宇佐市風土記の丘等)に葬られており、その他の人びとは、それぞれ亡くなった場所に葬られている。考古学上、装飾古墳として取り上げられる古墳がそれである。その分布は、ほぼ日本列島を覆っていると言ってよい。内壁を彩色したのが倭国の人の墓であり、線画の鳥などが描かれているのが継体軍の人の墓である。瞬時に起こった悲劇で数は多かったが、短期間に装飾古墳として荘厳を終えている。
 次に小倉山の裏の大櫟の下に草庵を結んだ童行者の祈りが、京(大宰府都城)の御所にいる帝の耳に聞こえたことが発端となり、そこに漂っている多くの霊を祠るために東大寺が造られることになる(『東大寺要録』)。発願は僧聴元年(536)で、まず倭薈の大仏像(後に場所と内容を改変したのが奈良東大寺大仏)が造られる。最初に造られた拝殿からは見えなくても、小倉山の向こうに大仏が出来上がっていくことがイメージされる。また小倉山の上はもちろん、周辺の山の上を完成に向かう大仏を遠望して、大勢の人が見物したと思われる道の跡を確認できる。これらのことから、拝殿から西方を拝むと小倉山があり、その後ろに座る大仏が山越えにこちらを向いているイメージ(山越え阿弥陀来迎)が完成したと考えられる。
 続いて覆屋としての大仏殿が造られ、脇侍として息長足姫像と仲津姫像が安置される。合わせて35年の歳月の後、金光元年(570)に金光明四天王護国之寺(東大寺の正式名称)が完成する。大仏殿の屋根を省略してこの伽藍を描いた曼陀羅「地獄極楽図」と「山越阿弥陀図」が一組の屏風として描かれており(京都・金戒光明寺蔵)、倭国の聖地小倉山が主題であることが分かる。来迎図では倭薈は阿弥陀如来に、母の息長足姫は観音菩薩に、妻の仲津姫は勢至菩薩に描かれている。阿弥陀信仰は6世紀末に燎原の火のごとく東アジアに広がった。
 これらの時期の倭国の京と小倉山東大寺を舞台とする話が『信貴山縁起絵巻』である。奇跡を行う聖が東大寺のそう遠くない信貴山という場所に住み話題となっている。京では帝が病を患って困り、その聖の力を借りることになる。聖は信貴山で祈祷を行い京にいる帝の病を治してしまう。この聖には信濃に住む1人の姉がいる。幼くして別れた弟に会うために上京し、やがて東大寺に至り、夢に現れた大仏(阿弥陀)のお告げで、住んでいる場所を知り、その後一緒に暮らすと言う話である。この東大寺の大仏は奈良の大仏と異なる柔和な容貌に描かれている。その他の細部についても『東大寺要録』に記録される大仏の内容と一致する。倭国の京の東の大寺、東大寺である。

倭薈の容貌
 唐の張楚金の『翰苑』に倭国が歌われる。その中で女王の時代を代表する卑弥呼と臺与を歌い上げ、次に男王の代表として「文身點面、猶太伯の苗と称す」者と「阿輩鷄弥、自らの天児の称を表す」の多利思北弧が歌われる。多利思北弧の前の時代に活躍した倭国を代表する文身點面の王が倭薈である。まさしく特異な容貌の王として東アジアに知れ渡っていたことになる。文章に現れるのはこれのみだが、その姿を他に追ってみる。
①薬師寺金堂の薬師如来像
 胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文。
この姿が文身點面の完璧な内容を現していると思われる。これが小倉山の麓の堂に安置された倭薈像である。

②法隆寺金堂の壁画の阿弥陀如来
 阿弥陀浄土図と呼ばれる阿弥陀如来を描いたとされる図である。卍文は衣服で隠れており、足の裏は図柄を表現出来ない角度から描かれており、手の輪宝文のみである。他に釈迦浄土図と呼ばれる図にも入れ墨が描かれているとされるが、写真では手の文は明らかでないし、胸の卍文も後に書き加えたものと思われる。というのは消失壁画のその部分は壊れたり傷付いたりしていないが、卍文の痕跡がないのである。
 前著で述べたようにこの壁画に描かれるのは歴代の倭国王の姿であり、のちに阿弥陀如来と呼ばれる倭薈の姿が重要な意味を持っていたのである。

③東大寺大仏の蓮弁に描かれた阿弥陀如来
 大仏は蓮の花が開いた状態の蓮肉の上に座り、蓮肉の回りを蓮弁が取り巻く。上段は仰蓮、下段は反花で、上段の蓮弁の一つ一つに阿弥陀如来が毛彫で刻まれている。蓮弁の如来は左手に輪宝文を描き、右手には何も描かれない。そして胸の卍文はその部分を切り取り、次に裏から同材料で補修し、再び卍文が描かれたことが分かる。さらに周囲には切り刻んで補習した跡が見える。小倉山東大寺の大仏の下半分が残った姿が奈良東大寺の大仏である。残った蓮弁のいくつもはこのように切り刻まれており、再建の事情が読み取れる。また無傷の蓮弁の阿弥陀如来には両掌に輪宝文が、胸に卍文が描かれている。

④来迎図の阿弥陀如来
 一群の来迎図は定説では時代が下ることになる。例えば鎌倉時代とされる奈良法華寺の阿弥陀三尊及び童子像は、来迎図の初期を飾る作品で、600年以前の制作であることは疑えない。その阿弥陀には胸に卍文、手に輪宝文、足に瑞祥文が描かれている。

 以上、「文身點面」の倭国王倭薈である。500年代後半からは阿弥陀として認識され、今日に至っている。阿弥陀は日本人の深層意識に住み続けているのだが、壬申の乱後は阿弥陀信仰は徹底して禁止される。現代日本の宗教学は阿弥陀信仰が鎌倉時代に確立したという地点から先に進めないのである。

新関東大地震

 錯覚というのではないが、杞憂に終わることになれば幸いなことを述べておきたい。私は『列島合体から倭国を論ず』の地震論で日本を中心とした歴史に地震の姿が投影されていることを述べた。特に建築技術の変遷にそれを見た。そして地球が全体としてどの様に変化しているのかの新しい認識に至り、地球物理学の現在の考え方と異なる原因と仕組みの提示を行った。それらについてどの様に評価されるのか著名な複数の学者に読んでもらったが、今のところ反応を得られない。新説の評価は不明であるがさらに次の1歩を踏み出したい。
 プレート・テクニクス理論におけるプレートの動きは、地球の自転によるマントルの西向きの流れに浮かぶ固体の動きであると説いた。西日本列島弧をフィリッピン・プレートが押し、それらを東日本列島弧が押す。丹沢山塊について言えば、その先を西日本列島弧に踏み付けられ、後から東日本列島弧に押し上げられている状態である。
 ところで関東大地震において、その丹沢山塊はほぼ全面が地すべりを起こしたことは良く知られている。また山塊の標高が地震前に比べ80㎝ほど下がったことが計測されている。山塊は浮き上がった状態から地震によって80㎝落下したのだ。地震の原因として陸塊の落下を挙げた学説を知らないが、関東大地震は丹沢山塊の落下による衝撃そのものと考えるのである。
 そして現在丹沢山塊の標高は、関東大地震直後の計測から約80㎝上がった数値を示す。新関東大地震は何時起きても不思議ではない状態にあると言える。私の理論からするとまず三浦半島辺を中心とするマグニチュード6.5以上の中規模地震が起こり、その後1年前後経過してマグニチュード7.9の新関東大地震が起こると考えている。自然の成り行きは私の理論を越えて動くかも知れないがそれは致し方ないことである。今出来ることは、被害を最小に止める努力以外ない。特に巨大地震が起こった場合、原子炉に被害が発生し制御が効かなくなることが最大の心配である。チェルノブイリのようになれば、我々は日本列島に二度と住めなくなるのである。
(1998年12月28日)