5.観世音寺の五重塔
 本来の『源氏物語』の京は現在の大宰府都城跡であり、現在大宰府政庁と呼ばれる内裏(だいり)と、学校院と、王室寺院である観世音寺が並び建っていました。清明上河図の流布本のいくつかにはそれらしき建物が描かれています。しかし、清朝画院本にはそれらは描かれておらず、別の水上宮と、最奥には近江の海に臨んだ石山寺と思しき建物が描かれています。元本Aに描かれている本当の姿を見たい気持ちです。
 『源氏物語』若紫の巻で、618年3月も終りに近く、光源氏はわらわ病(や)みに侵されて、北山に聖を訪ねて登ります。もちろん現在の大野山で、山の桜はまだ盛りでした。坂道を登る光源氏の一行が描かれる「源氏物語絵巻」は国宝の方ではなく、天理図書館藏の方ですが、眼下に相輪(そうりん)と風鐸(ふうたく)が金銅色に輝く五重塔が描かれています。翻って、京都の北山の眼下に五重塔の建つお寺はありません。描かれているのは607年に創建された観世音寺五重塔なのです。この絵巻は663年までに描かれたものであることは自明で、一番貴重な「源氏物語絵巻」と言うことになります。
 もちろん『法隆寺は移築された』・『建築から古代を解く』で紹介した観世音寺古絵図にはその創建五重塔も描かれています。623年に裳階(もこし)が付けられる以前の五重塔です。
 次に史料としては、延喜五(905)年に製作された『観世音寺資財帳』には「瓦葺五重塔壱基 戸肆具 鐸四口」と記されています。定説ではこの時、五重塔は実在したとされます。しかし先にも紹介した901年に左遷された菅原道真は「都府の楼には纔(わずか)に瓦の色を看(み)る。観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」と詠っており、五重塔が建っていれば触れないはずはありません。この時すでに五重塔は存在していない。文書としては残されていますが、実物は600年代末の解体移築で消滅したままであったと思われます。
 現在の観世音寺の塔跡には心礎(しんそ)と礎石(そせき)4個が残ります。
 心礎は厚さ2m以上で東西2.1m、南北2.3mの花崗岩の巨石で、その中心に89㎝、深さ22㎝の心柱の柱座を掘り凹めているが、舎利孔はうがたれていない(NHKブックス『西都大宰府』藤井功・亀井明徳)。
 私は巨石文化に気付くまではこの心礎は自然石の上部を加工したものだと思っていました。しかしよくよく考えればそのような自然石を探すことは大変なことです。花崗岩の採石場から切り出し、加工し、運び、据え付けたと考えるべきでしよう。この心礎も巨石文化の一端にあります。
 観世音寺塔跡の基壇(きだん)は削られており、礎石のレベルがどのような関係にあったかは明らかにしがたい状態です。調査をされた鏡山猛氏は「大宰府と観世音寺礎石について」で心礎が基壇面より高い位置にあるつくりであったことを述べておられます。16個の礎石と共に、心礎も基壇の上に頭を出した状態に据えられていたと言うことです。近畿地方で発掘された古代寺院(扶桑国の寺院)の心礎の多くは上面が基壇面下2.7mの地中に据えられているのと異なります。
 ところで移築された五重塔の詳細は昭和の法隆寺解体修理工事で明らかとなりました。五重塔の下部の断面図です。観世音寺の五重塔は心柱が基壇の上に飛び出した心礎の上に乗っていたこと、他の柱も基壇上の礎石の上に乗っていたことが分かり、鏡山氏の礎石の所見と合致します。心礎の上の89㎝の皿の上に立つ心柱の足元は空洞になっており、皿の上に直径75㎝、高さ1.5mほどの乳房状の空間を造っていたことが分かります。心柱の根元部分が鑿で穿たれて造られていることは解体修理工事報告書の写真から明らかです。法隆寺解体修理工事ではこの心柱の加工を腐朽(ふきゅう)したものと誤った判断をし、脚部の2mを切断し、無垢材(むくざい)で根継(ねつ)ぎをしてしまったのです。断面図の心柱は須弥山の塑像の断面の中に隠れており、同様、四天柱も点線で表されるように、背後の須弥山の塑像の中に隠れています。観世音寺金堂には釈迦像(現在の薬師像)が主仏としてありましたが、623年に新たに釈迦三尊像と阿弥陀如来像を加え、三体が並ぶ配置となり、外陣として裳階が取り付けられました。同時に五重塔も外陣としての裳階が付けられ、断面図のような須弥山と、上宮王の死を悲しむ塑像群が造られたのです。創建時の五重塔では中央の仏壇の湧き立つ雲の中に舎利容器が置かれ、外壁の8面の内壁には8体の菩薩像が描かれていました。これらは解体修理工事報告書の所見から復元されます。
 創建観世音寺を復元することで、新しい問題が明らかになります。仏舎利塔(ぶっしゃりとう)が変形したものが五重塔で、仏教寺院で最も重要な建物と言われています。その舎利容器(しゃりようき)は発掘調査された近畿地方の五重塔跡では地下の心礎上面の収容穴に収められていました。一方、観世音寺五重塔では基壇の上の心礎の皿の上に舎利容器が置かれていたと思われますが、法隆寺の宝物にはそれらしきものは伝わっていません。舎利容器は移築されていないのです。
 664年5月から672年5月にかけての8年間の唐軍の占領のはじめ、664年5月から12月の間に筑紫の京を取り巻く函谷関にも勝る城壁は解体され、土盛りの現在の水城に変身します。城壁都市が解体させられたのですが、実に周到な占領政策が実行され始めたことを理解したと思われます。その後の唐軍占領期に起こったと思われる一つの出来事が推測できます。それは鳥仏師の工房の連中が観世音寺の五重塔の須弥山に囲われて隠されていた舎利容器や釈迦三尊像光背の飾り金物などを運び出し、扶余の百済王室寺院の廃墟工房の水槽跡に隠したことです。韓国では同所で発掘されたものであり、百済王室の工芸品・百済大香炉であり、663年の百済国滅亡の直前、あわただしい状況の中で隠したものだと主張しています。が、二つの点で間違っています。一つは墓さえ暴かれることは常識であり、百済王室の宝がそのような場所に隠されることはありませんし、隠したら盗掘されていたと思われます。滅亡後に荒らし回って廃墟となり、時間のたった工房跡の水槽の中に隠したから現代まで残ったと考えられます。二つは香炉としていますが、香炉なら煙が出る穴が造られているはずですが、それは見当たりません。島国である日本国を須弥山に見立てたデザインと思われ、容器の上に鳳凰が立ちます。上宮王が造られた観世音寺の舎利容器にふさわしい形態と言えます。
 現代人にとって歴史の真実を知ることこそ重要だとの認識に立たれるのならば、どこで造られたものであるかを明らかにする方法があります。銅鏡ですでに行われていますが、金銅の材料分析を行うことです。分析結果は東大寺大仏の銅の原産地である長登の銅が使用されていることを明らかにすると信じます。
(2010年9月25日 米田良三)
(2011年1月4日 誤記訂正)
(2012年6月30日 更新)