―さしでがましいとは思いますが、知っていることをお伝え致します―

米田良三

「龍@Dragonest」さんのブログに、「虹のマイホームパパ」さんが2009年9月4日、
地蔵菩薩さまと神功皇后さまとは、どのような御関係なのでしょう。
の質問をされ、2010年1月3日の下記ブログで、神様が「これについてはわかりません」と答えておられます。その前後の内容はブログを見て頂くとして
ameblo.jp/dragonest/entry-10425229870.html
 以下は、お二方のやり取りを5月初めに目にすることになった、次元の異なる歴史探究者からのメッセージとご理解ください。ただ、誤解を与えないようにと説明を加え過ぎたため、長文になったことをお詫びします。

 「地蔵菩薩と神功皇后」は日本の歴史に実在した親子です。「地蔵菩薩」は後で述べるとして、「神功皇后」の正式な名称は神功王后(じんぐうおうこう)で、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とも呼ばれました。「倭の五王」の最後の王・倭武(ゐぶ)の后で509年4月17日に亡くなります。何歳であったかは知ることはできませんが、後述する彼女をモデルとした彫像から30代での死亡ではなかったかと推測します。
 倭武はそれより先500年2月に亡くなりますが、不審な死でしたので公表されませんでした。おそらく病のため寝所に伏せておられるとしたのだろう。カムフラージュのためと思われる「裂田(さくた)のうなで」と言う大土木工事が、神功王后により行われ、現在もその用水路は福岡県那珂川町にあり、使用されています。倭武の死に新羅国が関わっている(占い?鏡に映った?)ことを確かめた神功王后は10月、先頭に立ち、世に言う新羅征伐に出発し、勝利を収め、帰路12月14日に福岡県宇美町で倭薈(ゐわい)を産むことになります。筑前国風土記逸文の「児饗(こふ)の石」にあるように、臨月を押しての出征でしたが、出発に先立ち、三輪神社に戦勝を祈願しての結果でした(『日本書紀』神功皇后の条と、『釈日本紀』の筑前国風土記逸文「大三輪の神」に同内容の記述)。このあと617年までの117年間、新羅国に軍を駐留させます。この事実を証明するものに正倉院御物の新羅国戸籍があります。現在の日本にも米軍が駐留して65年になります。そこに至った理由にもよるのでしようが、外国軍の駐留が短くないことの一例ではあります(もちろん世界が驚愕する例外、1330年以上に亘る天皇家の支配下にある現実と、二重に支配されている現代日本人の悲劇は置きます)。
 502年中国南朝は斉から梁に代わり、倭武は梁の武帝から征東将軍を授かります。死亡が公表されていなかったからであり、その後死亡したことを公表し、同年11月に埋葬します(『日本書紀』の「仲哀天皇」の条)。それが香椎宮で、「仲哀天皇、神功皇后」らが祭神となっています。
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  【キーワード】神功王后=息長足姫尊
  【キーワード】倭武=「仲哀天皇」

 倭薈は3歳で太子となります。が、いたずらの度が過ぎたようで、6、7歳のころ子豚を盗んだ罪で対馬に島流しの刑に処せられます。2年の日々の行動は民俗に記憶され、地蔵菩薩の行いとして現在も語られています。もちろん口伝の秘密を守るために、背景は語られることなく、毎年その時期が来ると祭りとして、地蔵菩薩の行ったことが再現されて来たのです。志賀海神社の山ほめ祭で「うつつらがせみがいにいのちせんざいとゆうはなこそさいたり」と歌われるように、対馬から帰還した時、倭薈は体に卍や輪宝を刺青した仏教者となって、志賀島沖に現れました。
 神功王后の死により、510年11歳で倭(ゐ)国王となります(『日本書紀』の「応神天皇」の条)。大宰府都城にあった都に4年が過ぎ、514年には吉野川(現在の筑後川)に面した奈良の京(みやこ)に都を移し(『肥前国風土記』三根郡「宮處の郷」か?)、奈良帝(ならのみかど)と称されます。514年から522年は善政が布かれたとして後世、寛平の治(かんぴょうのじ)(*注)と呼ばれます。
 奈良の京を拠点にして、隠国(こもりく)泊瀬(はつせ・佐賀県佐賀市)の地に、三輪神社(現在の杉神社)に関連する宗教施設として、母である神功王后を祀ります。十一面観音として知られる長谷観音像の鎮座する大悲閣と、700メートル余に続く平らな空中回廊が諸施設を結ぶ、大自然の谷間空間に立地する長谷寺の創建です。立像である長谷観音像は、戦勝を感謝する姿で、「二本(ふたもと)の杉」(三輪神社・又の名を杉神社の御神体)に対面します。この工事で、木工頭(もくのかしら)として奈良帝を助けたのは、歌聖でもあった柿本人麿でした(『古今和歌集』仮名序、『大和物語』)。観音信仰は隆盛を極めることとなり、全国(62ケ国?)に100以上の十一面観音を祀る諸国長谷寺が造られ、東アジアの国々(梁・新羅ほか)にも信仰の輪は広がります。現代日本の観音信仰同様、普陀落山(浙江省・舟山群島)に見るように、現代中国の観音信仰も盛んです。
 【ところで、このように説明してきた歴史は日本史の授業で教わる内容とは根本的に異なります。下線を施した地名や建物名は本来あったもので、現在は無いもの、歴史学で言うところのミッシングリンク(消去された文化)の中の存在です。消された文化があったことを仮定すると、現在定説となっている歴史にある矛盾は氷解し、歴史遺産の本来の価値が蘇ります。その大枠をつかんだ上でないと、この先さらに混乱を来たすと思いますので説明いたします。

 3世紀の卑弥呼の倭国は九州を中心とした国でありました。4世紀後半に讃が王となり、418年に九州、四国、本州が統一され、連邦国家となります。讃は「倭の五王」の最初の王で、仁徳帝を名乗ります。その後、珍・済・興・武(仲哀帝?)・神功王后・奈良帝の世を経、途中で国名を日本国に変え、663年まで繁栄し、我々が日本文化と認識する全て(飛鳥・白鳳・天平・平安ほかに組み替えられた文化やさらに知られていない存在)を現出します。
 664年から672年までの9年間、唐軍が筑紫を占領し日本国は滅亡します。唐軍の破壊と略奪はその痕跡を残さない形で行われます。672年5月からは、大和朝廷が人の移住と建物の移築を、同様に痕跡を残さない形で行います。つまり、現在我々が見るように、歴史から日本(倭)国の文化を消去したのです。

 拙著『法隆寺は移築された』に記したように法隆寺解体修理報告書から秘密が明らかとなりました。続いて現在使われる曲尺(かねじゃく・1尺=303mm)ではない、倭(ゐ)尺(1尺=281mm)の発見が、その後の創建建物の建設時期の判断に大きく寄与しました。移築された主な建物を挙げますと、法隆寺・薬師寺・東大寺・長谷寺・三十三間堂・桂離宮で、倭尺のものさしを使って造っていることを確かめることが出来ます。
 日本史の授業で教わる内容には、九州にあった本来の建物の歴史は無かったことになっており、これらの建物がなぜ造られることになったかの本当の理由(長谷寺についてはすでに述べました)が隠されています。また、(*注)の「寛平の治」は日本史の授業で平安時代の宇多天皇の四年(890年)から醍醐天皇の二年(898年)と教わります。元来一人の帝の善政を称えた言葉が時間軸を376年移動して歪な関係になっています。】

 息長足姫尊に起こった霊験に鏡が関係していたためか、長谷寺の文献には鏡の奉納が多く記載されています。奈良県桜井市に移築(721年)してからの後世(平安時代)の記録もありますが、本来の長谷寺の記録も少なくありません。またさらに佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には杉神社以外に、本堂跡の近くに鏡神社が現存し、祭神は息長足姫尊であります。また、杉神社の祭神は「神功皇后・仲哀天皇ほか」で1264年に香椎宮から勧請したとされます。この時、一時的に杉神社の歴史が途切れかかっています。杉神社の本来の祭神は、能「三輪」に見るように、天照大神や「二本の杉」そのものでありましょう。
 523年に倭薈は再び都を大宰府都城に移しますが、政治は弟である嵯峨帝(さがのみかど)に委ねた(兄弟帝と言う倭国独自のシステム)と思われます。嵯峨帝は現代に言うところの文化人で、漢詩に長け、奈良帝と歌のやり取りをしており、それらから心やさしい人物であることが分かります(『経国集』・『大和物語』)。奈良帝は梁から渡来(梁の都、建康に赴いた柿本人麿のヘッドハンティングの可能性が大きい)した司馬達等(しばたつと)の力を借り、奈良京の東山の麓に仏教道場である豊山(ぶざん)の彫刻公園(上陽町北川内、筑後国風土記逸文の「磐井の墓」)を造り、修行生活に入ります。全国から、アジア各地から、多くの才能が倭薈のもとに集まります。
 531年2月始めの凍てつく深夜に、(近畿の)扶桑国の継体軍6万人が倭国の都を奇襲します。『日本書紀』の記述を信じる人には荒唐無稽と見なされそうですが、神武東征の舞台は400年代の地形(大阪府の河内湖)に乗っており、次の事柄が歴史の真実と言えます。
 神武が418年に征服した狗奴国は、倭国統一の功労者である神武や神武の子孫が統治する、倭国の連邦国・扶桑国として存在しました。458年ころ若狭辺に進出して来た騎馬民族である天皇家(文化勲章受章者である『騎馬民族国家』の江上波夫が大和朝廷の創始は東北アジアの扶余系騎馬民族によって5世紀前半ごろに達成されたと推論されたところだ)は507年に神武の子孫に取って替わり、扶桑国を自分のものとします。継体軍の奇襲は騎馬民族の特異な戦法である大量の兵を使い、焼きつくす、殺しつくすというものでした。応戦するも、あまりにも大軍のため、流れを止めることは出来ません。この時倭薈は豊山に居たのか?都か、豊山から退き、大分県宇佐市の小倉山に追い詰められて命を落とします。后、二人の王子、1000人の修行者も亡くなります。事態を知った倭国軍は全国で反撃し、反乱を鎮圧します(『日本書紀』の「磐井の乱」)。辛亥の年(531年)の九州年号は発倒(弓を射て倒す)、殷到(衆が到る)、教到(もと凶倒?)と複数伝わりますが、「二月没」、「二月帝崩」と添え書きもあり、「乱」により年号を改めたことが分かります。この「乱」の多数の死者は各地の装飾古墳を中心に葬られます(装飾古墳の絵柄は仏教道場である豊山のイメージで統一)。小倉山を中心とする法域は惨劇を保全する形で整備され(534年)、霊山(りょうざん)と称されました(宝塔である三重塔は730年に移築され、薬師寺東塔となる)。薬師寺の薬師如来、日光・月光菩薩は、霊山の東院堂に安置された倭薈坐像と二人の王子立像で、倭薈は胸に逆さ卍、手の平に輪宝文、足の裏に輪宝文・瑞祥文の刺青姿のブロンズ像です。仏教を拒否し、伝統的な神道を信じる人々は小倉山の倭薈を八幡神と崇めます。後に大和朝廷は場所を6キロほど東へ移動して宇佐八幡宮に造り替えています。現在の全国の八幡社の数は、1万とも2万とも言われています。また、霊山と並行して、都の再建も行われますが、最初に行われたのは東ローマ帝国のコンスタンチノープルと同様に城壁で囲い、騎馬民族の攻撃の手法に備えることでした。函谷関より強固な逢坂の関が出来上がります。ちなみに城郭都市が完成して安堵した人麿が詠った歌は、百人一首の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」と思われます。
 535年、童行者(わらわぎょうじゃ)が申し立てる「倭薈を阿弥陀如来、息長足姫尊を観音菩薩、后の仲姫(なかつひめ)を勢至菩薩とする阿弥陀三尊と、それらを囲む多くの菩薩や化仏を、小倉山の大寺院に祀る構想の実現」を、延喜帝(えんぎのみかど)が決断(「早来迎」・「僧聴」の二つの奇跡により進展したと思われる)し、536年から阿弥陀大仏の建立が始められ、天慶帝(てんぎょうのみかど)の570年に至って、東大寺、正式名称金光明四天王護国之寺が落成します。全国の国分寺・国分尼寺も造られ、阿弥陀信仰は隆盛となります。当初の経典には阿弥陀の誓願から、継体軍関係者らは「唯除五逆」と除かれています。倭薈の死のショックが大きかったからです。時間が過ぎ、それでも阿弥陀の思いは全ての人を救いたいというものだとし、完璧な教義に変えたのは天暦帝(てんれきのみかど)で、590年頃のことです(法然がこの境地にたどり着くのは585年後の1175年)。そして阿弥陀信仰は東アジアの国々(隋・唐・新羅)に広く受け入れられます。「家家観世音、処処阿弥陀仏」のことわざが生まれるまでに、観音信仰と阿弥陀信仰が中国民衆信仰の中心を占めることになります。
 阿弥陀の教えが説かれる『無量寿経』に記されるように、生前に修行する地蔵菩薩と、冥界にいる悟られた阿弥陀如来と言う関係にあり、二つの名称は倭薈の生前と死後を表現していることが分かります。32歳の生涯であった倭薈ですので、対馬に流刑になった際の行動は、のちに地蔵菩薩として記憶されることになったと思われます。地蔵菩薩と神功王后の関係は子と母親であります。ところで奈良帝の王子(薬師寺の日光・月光菩薩のモデル)の一人は阿保親王と言います。「乱」の時、阿保親王の五男は赤ん坊であったに違いありません。後に在原姓を賜り、『伊勢物語』に在原業平として記録され、能「筒井筒」に隠国を舞台として夫婦の愛が語られます。阿弥陀さんのお孫さんなのです。
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  【キーワード】神功王后=息長足姫尊=十一面観音=長谷観音=観音菩薩

 天暦帝の息子で、法興帝(ほうこうのみかど)と呼ばれた上宮王(じょうぐうおう・『日本書紀』の「聖徳太子」)は、悲しむべき事件、日本人が『さんせう太夫』として知る事件―日本国王子である厨子王(ずしおう)らが誘拐される―を契機に、605年倭国を日本国と改名します。607年には「日出処天子」の国書を携えた遣隋使が派遣されます。国書には国名改名の経緯が報告されていました(『旧唐書』に引用)。また同年、観世音寺(710年に移築して法隆寺)が創建され、金堂の仏壇には、釈迦像(法隆寺の「薬師像」)を中心に上宮王像(法隆寺の「救世観音像」)と千食王后像(せんじきおうこうぞう・法隆寺の「百済観音像」)が並びました(三尊形式)。続いて外陣の内壁には、歴代の帝とその中枢が四大壁画の浄土図として描かれます。「延喜・天慶・天暦の治」の延喜帝、天慶帝、天暦帝を描いた浄土図と、小倉山辺を背景とする阿弥陀三尊を描いた阿弥陀浄土図(法隆寺金堂壁画6号壁)です。
 信じられないでしょうが、『源氏物語』は光源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。例えば源氏18歳の618年10月10日過ぎには観世音寺の落成式である紅葉賀(平安時代の『源氏物語』では朱雀院の行幸とあるが、本来は観世音寺への行幸)が、上宮王(『源氏物語』では桐壺帝)の出席のもと取り行われた様子が詳細に記録されています。玉蔓(たまかずら)の巻には、この時の印象を述べる三条の言葉「清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる」が記されます。大宰府都城が『源氏物語』の京でないとこの言葉は意味を成しません。帝(法興帝)が行幸する対象の観世音寺なのです。
 上宮王は隆盛を極める阿弥陀信仰を、釈迦中心の法華経的価値観の中に収め、その造形的表現として観世音寺を造ったということが出来ます。その際、「磐井の乱」で亡くなった千人の修行者、つまり阿弥陀信仰の千体仏(せんたいぶつ・645年に完成)は、観世音寺伽藍の裏に位置する、北面堂である三十三間堂(1266年に京都・三十三間堂に移築)に安置し、阿弥陀三尊と分離しています。宗教者のものでない、生活者の仏教を主とする(法華経の主旨)仏教王国の樹立を宣言されたことが分かります。後に日本(倭)国王室寺院である観世音寺の中心伽藍を移築し、大和朝廷の聖徳太子が創建したとしたのが法隆寺であります。
 ところで法隆寺に在る地蔵菩薩像は地蔵菩薩像の中で唯一の国宝です。明治の廃仏毀釈により取り壊された大御輪寺(おおみわてら)から聖林寺を経て移動したものですが、聖林寺の国宝十一面観音像と共に在った大御輪寺は、三輪山を御神体とする三輪神社(奈良)の神宮寺でした。神功王后の十一面観音像と倭薈の地蔵菩薩像は、九州の隠国の「二本の杉」を御神体とする三輪神社(神功王后が出征時に祈願した)から、大和朝廷が移動させた奈良の三輪神社の神宮寺である大御輪寺に鎮座していたのです。なお「二本の杉」は平安時代には伐採され、無くなっていたと思われます。
神木の大杉を切った孫太郎の伝説が現地の今原(いまばる)にあり、「二本の杉」の存在との関連がうかがえます。
 次に、百体以上あると思われる十一面観音像、頭上に11人の顔を持つ観音像の内、長谷観音と奈良法華寺の十一面観音のことに触れます。長谷観音は像高が10メートル以上もある世界一大きい木造彫刻で、右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手に水瓶を持った十一面観音で、金箔に覆われています。600年代中頃の清少納言は『枕草子』で、長谷寺へ頻繁に詣でたことを語り、御あかしの中「仏のきらきらと見え給へるは」に止め、尊さを表現しています。亡くなる直前、30歳代後半の神功王后の姿と思われます。進化論に毒された現代人には不思議に思えるかもしれませんが、これだけの像を造る能力は倭薈の時代にしかないと申せます。長谷寺の説話にこの観音像は517年に用材を得て造られたとありますが、歴史事実を伝えていると思います。定説では何回もの焼失・造像を経て、1538年に造られたものとしていますが、用材を得ることさえ容易ではありますまい。長谷観音に向かって右脇侍は難陀龍王立像(なんだりゅうおうりゅうぞう)、左脇侍は雨宝童子立像(うほうどうじりゅうぞう)ですが、難陀龍王が倭武であり、雨宝童子が倭薈であることは疑い得ません。ところで、十一面観音に関する経典は三本が知られますが、同本異訳の経典で、形像に関する記述も一致します。定説では、これら経典により長谷観音が忠実に造られたとされますが、これら経典の訳が為されたのは571年以降であり、517年に造られた長谷観音の形像を記録したことは否定できません。
 もう一つは総国分尼寺である法華寺の十一面観音です。長さ135センチほどの榧(かや)の一材から彫出した、頭髪・眉・髭・白目・唇を彩色する以外はすべて素地仕上げとした作品です。髪や天衣が風に翻えるように表現されていることが特徴とされますが、これは息長足姫尊が新羅征伐の船上にあった時の姿を写し取っているのではないでしょうか(妊婦姿ではありませんが)。定説に言う光明皇后を写したでは風を切る姿の説明が付きません。新羅征伐時の30才頃の神功王后をモデルとしていると思います。没後の記憶の新しいうち、観音信仰の初期に造られたことは間違いなく、500年代前半の作品と思われます。倉田文作は『仏像のみかた』で法華寺十一面観音について、「彫りこんだ工芸的な精巧さに加えて、肉身の健康なうつくしさと、ひとつの様式として完成された木彫の意匠性と、そして巧まざるデフォルメのおもしろさを示している」と称賛しています。九州にあった本来の総国分尼寺は正式名称法華滅罪寺として造られ、先行する長谷観音とは異なるオリジナルな十一面観音が求められたのでありましょう。また阿弥陀来迎図のうちで、最も重要な作品とされる同寺藏の阿弥陀三尊及び童子図三幅も、後の来迎図と異なり、修行者(尼)の前に日常的に掲げられたオリジナルな阿弥陀三尊像であったと思われます。その阿弥陀像は坐像で、薬師寺の薬師如来像―霊山の倭薈坐像―と同じ刺青が胸、手の平、足の裏に克明に描かれています。特筆すべきは、胸の中心の逆さ卍相で、光炎の中に円みのある華形の古い形を示しています。
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 622年上宮王と千食王后が亡くなり(前年には大后が死亡)、上宮王をモデルとした釈迦三尊像(現法隆寺釈迦三尊像)が造られ、観世音寺金堂に安置されます(623年)。息子の光源氏の時代を迎えたわけです。『源氏物語』に語られる世界は阿弥陀信仰が日常生活に浸透し、日本(倭)文化が頂点を極めた日々であります。635年、京に源氏が造った六條院が完成し、紫の上のサロンに紫式部、和泉式部、清少納言などが集まり、その才能を開花させます。また後に源氏が世話をすることになる二十歳の玉蔓が隠国長谷寺に詣でたのも635年のことで、母・夕顔の女房右近との再会を「二本の杉」に感謝しており、本堂における初夜(そや)の勤行で長谷観音を拝する様子も窺がうことができます。また、ハーバード大学美術館が所蔵する『源氏物語画帖』玉蔓は、その直前、御寺に到着した玉蔓一行の喜々とした表情が、長谷寺本堂舞台、空中回廊、「二本の杉」、泊瀬川などを背景に描かれた一枚の絵となっています。論理的構成と、消去された文化を復元することを可能にするリアリズムを持つ作品です。
 653年の源氏の死により、すぐれた指導者を欠いた日本国は周辺国に翻弄された可能性が大きいと思われます。そんな中、661年に年号を白鳳に変えます。『二中歴』に「対馬採銀観世音寺東院造」と説明するように、対馬で銀の採掘が始まったことを「しろがね」である「白」に託し、観世音寺東院(730年代に移築して法隆寺東院伽藍)が造られたことを「鳳」に託し、白鳳の年号としたのです。623年に造られた釈迦三尊像が金堂に置かれ、上宮王像(救世観音像)と千食王后像(百済観音像)は居場所がなかったのですが、二人の住処(伝法堂)に夢殿を加えて東院伽藍が造られ、居場所が出来たことを祝う気持ちを、上宮王が自らを譬えておられた「鳳」に託したのです。
 唐突に663年に日本(倭)軍は百済の地へ出兵し、白村江の戦いに敗れます。結果、664年から672年まで、唐軍は筑紫を占領し、日本(倭)国は滅亡します。『旧唐書』に記されるように703年大和朝廷の遣唐使が「日本国」を自称します。扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治し、現代に至っています。
 日本(倭)国の文化は消されたのですが、占領唐軍による破壊・略奪(例えば城壁は解体され、材料の石や甎は中国に運ばれた可能性があり、跡地は水城と呼ばれる土塁に変化しています)、672年以降の大和朝廷による移築・略奪、平安時代末期の平氏による移築(三十三間堂)、江戸時代の徳川氏による移築(桂離宮・知恩院鐘楼、経蔵)と、近世までそれらの行為は続いたのです。現在、日本国(九州王朝)があったという考えの歴史家はほとんどいません。ミッシングリンクの存在を隠し続ける天皇家(大和朝廷)、中国(唐)、韓国(新羅)の態度は、その行為を後ろめたいこと、人間として許されないことだと自覚していることを示しています。東アジアの頂点を成した文化―おそらく人類史上の最高到達点に達した―を消し去った蛮行以外の何物でもありません。これら文化の完璧な抹消が行われているのですが、近畿に移動した文化と人々の歴史は途切れることは無く、「磐井の乱」の記憶さえ消えずにあるのも現実です。
 奈良東大寺は先に述べた小倉山東大寺が移築されたものであることは言うまでもありません。東大寺二月堂のお水取りは、関西では「お松明(おたいまつ)」とも呼ばれる行事で、本尊である十一面観音に罪障の懺悔をする行事で、正式名称を十一面悔過法要(じゅういちめんけかほうよう)と言います。つまり息長足姫尊である十一面観音が絶対秘仏とされる本尊なのです。旧暦の2月1日から14日まで行われる修二会(しゅにえ)で、薬師寺、新薬師寺、法隆寺、長谷寺でも行われ、同様にたいまつや鬼が登場します。薬師寺の薬師如来は霊山小倉山)の倭薈坐像であったこと同様、これらの寺は阿弥陀三尊に関係する寺院であり、奇襲日の2月初旬、焼き打ちのたいまつ、継体軍である鬼・だだおしと、「磐井の乱」を思い出す要素で構成されているのです。
 以上が日本(倭)国の歴史の概略ですが、より詳しく知りたい場合は拙著『現代を解く・長谷寺考』をお読みください。何はともあれ「虹のマイホームパパ」さんが、現在では消え去った歴史事実の点(地蔵菩薩)と点(神功皇后の鏡)を、関係あるものと認識されたのは不思議と言わざるを得ません。