倭国長谷寺跡の発見
 1922年のハワード・カーター、ジョージ・カーナヴォン卿によるツタンカーメンの墓の発掘、1953年のジェームス・ワトソン、フランシス・クリックによるDNA分子らせん構造の発見、2008年、ご当地の益川敏英、小林 誠両氏のノーベル物理学賞の受賞がそうであったように、世界的な発明、発見が絶妙なコンビによって成し遂げられた例はよく知られている。
 ともに三重県松阪生まれで2歳違いのりょうぞうしょうぞうというよく似た名前の二人組が成し遂げたことは今後どのような評価を受けるのかまったく未知数であるが、ことによると冒頭のコンビたちのように歴史にその名を刻む可能性がある。しかし、その内容となると、日本の歴史がオセロゲームのようにひっくりかえることになるので、認めたくても認められない立場の者が数多く存在する。
 謎に包まれた筈の大和長谷寺の起源が、実は500年代初頭の佐賀県にあり、現在語られるおとぎ話的な伝説がクリアな史実に取って代わられるという信じられない事実が明らかとなった。倭国長谷寺跡が発見されたのである。同定したのはりょうぞうであり、アシストはしょうぞうである。二人は2008年11月23日現地に立った。

    

 鶴舞交差点(名古屋市昭和区)界隈で残っているのは老舗の2軒のみとなってしまったが、10年前にはユニークな古本屋がもう数軒存在していた。
 その頃、今は無い書店で手にした『法隆寺は移築された』という本がそもそもの始まりであった。元々、自宅やクリニックの設計を手掛けたくらいであるから建築には興味があったが、いざ読み始めてみると、知らない日本建築の用語に満ちており、読み進むに困難を極めた。わからないところは飛ばして一通り眼を通したところ、書いてあることは直感的に本物であると思えた。
 この本の著者である米田良三氏の唱える「法隆寺移築説」、その前提となる古田武彦氏の「九州王朝説」等は歴史アカデミズムの最も嫌うところであり、未だにまともな議論は交わされていない。
 教授に逆らえない体質の歴史学会で、若手の反乱が起こるといわれて久しいが変化はない。この本のように異分野人の書く歴史本に人気があるのは、このような事情を反映していると思われる。

 その後、ちくさ正文館(名古屋市千種区)で米田氏の第4作『逆賊磐井は国父倭薈だ』を見つけ、第1作『法隆寺は移築された』と同様、四苦八苦しながら熟読した。
 タイトルの意味するところは即ち、我々が日本史でさらりと習う「磐井の乱」の磐井が実は九州王朝のすぐれた王で、その死後、阿弥陀如来や八幡大菩薩と目された方であるというのだが、現代の日本人の常識では、この説は理解不能と思われる。著作では、薬師寺、東大寺、長谷寺についてユニークな見解が述べられているが、今回注目すべきは第3章の長谷寺である。
 米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」
 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。
 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。
 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。
 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。
 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。

 歴史の勉強方法といえば、偉い先生方の説を丸暗記する受験勉強式の学習方法が頭に浮かぶが、学校で習った日本史を一度すべて白紙に戻さないと、この国の始まりの謎は解けない。一言で言えば、倭国の終わりの方は弥生時代のイメージは全くなく、東北地方までを治める「United States of 倭」とも言うべき国であり、Washington,D.C.に当たるのが大宰府であった。663年の白村江の戦いの後、大和平野の権力集団が進駐軍(唐)と結びつき「日本」をスタートさせ、九州王朝の総てをパクって我がものとして現在に至っている。歴史教科書では我が国が唐によって占領されたことは全く伏せられている。

 さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面がハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。

 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞうしょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。

 「法隆寺移築説」は支持されつつあるが、他の建築物については当然反論が予想される。しかし、 で言えることは n+1 でも言えるという「数学的帰納法」を思い起こせば、他の建築物にも疑わしいものもが数々ある。長谷寺のほかに薬師寺東塔と東院堂、東大寺南大門、平等院鳳凰堂、室生寺、興福寺の五重塔、知恩院の鐘楼経蔵、東福寺三門、過日、解体修理が終了した唐招提寺金堂、何と桂離宮も移築されており室生寺、興福寺、東福寺、唐招提寺以外は元の所在地も見当がついていると言う。
 これだけ多くの日本(倭)国時代の世界文化遺産があることが公になれば、わが国に世界中から観光客が殺到するに違いない。のみならず、世界の人々のわが国を見る眼も変わるし、何より日本人のプライドが復活することが喜ばしい。

 昭和40年ごろ中央公論社から『日本の歴史』という全集が出版され、大ベストセラーとなった。古代の部分はあこがれのM.I.、K.N.両教授の執筆であったが、彼らは唐による日本の占領があったという事実を知っていたのだろうか。知らなかったのなら随分怠慢であるし、知っていたのなら国民に大嘘をついていたことになり、いずれにせよひどい話ではある。父の遺品の雑誌にみつけたR.T.氏の文章(日本古代の都城)にある歴史観では外交面で中国に太刀打ちできるものではなく、本書のタイトルに 〝現代を解く〟 と付けた著者の意図が痛いほど理解できるのである。    (完)
『現代を解く・長谷寺考』に掲載

渡辺しょうぞう