倭薈終焉の地を巡る(2015.11.22.)

 米田良三 著『逆賊磐井は国父倭薈だ』で述べられている、小倉池周辺(大分県JR柳ヶ浦駅下車)の状況を体験しようと試みました。現在は何の変哲もない田舎の風景ですが、米田説が認められれば、大人気の観光スポットになると思われます。

 倭国の時代、磐井の乱後の巡礼コースに従って法鏡寺跡(発掘後再び埋め戻されている)からスタートします。車で5分程の距離にある虚空蔵寺跡は、戦後間もなく三重塔跡が発掘され、注目を浴びた遺跡です。法隆寺と同じタイプの伽藍があったと発表されていますが、発掘されたのはごく限られた部分であり、法隆寺型の伽藍の存在を証明するには無理があります。つまり、回廊が発掘されているわけではありませんので、そのような発表をすることはルール違反です。法隆寺とは異なり、三重塔、観音堂、金堂、三門等がランダムに散らばっていたと思われます。その情景を現しているのが「薬師寺古図」であり、現在の奈良の薬師寺の移築前の姿なのです。移築後、抜け殻になった所に造られたのが虚空蔵寺という事になります。



 門の位置から類推するに、南向きの伽藍ではありません。発見された塼仏が大和壺坂寺のものと同じだから、大和から運ばれたと言うのもおかしい。宇佐に在ったものを大和に運んだと考えるほうが自然です。「薬師寺古図」を詳細に観察すると、まだまだ納得できる数々の事実が発見できます。例えば三重塔には裳階が付いており、奈良の薬師寺の東塔そのものと思われ、決して大分県歴史博物館にある模型のような単純なデザインではありません。

 虚空蔵寺跡を分断するように南北にハイウェイ(宇佐別府道路)が通っていますが、この工事を契機に大規模な発掘が行われました。その際、九州王朝の存在を裏付ける発掘品があったとしても、大和朝廷中心主義的解釈がなされたと思います。都合の悪い所は意図的に掘られなかったかもしれません。

 ハイウェイの西の部分(かつての倭国薬師寺の敷地内)には本当の由来は不明ですが山積神社という随分由緒ありそうな神社が在ります。薬師寺移築後に大和朝廷主導で建てられたもの、それとも倭国起源でしょうか。1年前に訪れた佐賀県三瀬村の杉神社、鏡神社と同様、現在、本格的な御社(おやしろ)はないものの、佇まいには圧倒されます。



 さて、いよいよ小倉山に挑戦ですが、その前に、あのiichikoの会社について触れねばなりません。小倉山に向かう途中、iichikoの会社「三和酒類」の前を通ります。清らかな雰囲気に囲まれた広大な敷地、巨大なタンク群に圧倒されます。実は、会社と小倉山は背中合わせなのです。米田良三著『逆賊磐井は国父倭薈だ』79ページの小倉山遺跡配置図には倭薈が継体軍に討たれた場所が×印で示されています。そのポイントに近づきたいという思いが募った挙句、会社に問い合わせ、目指すエリアは会社の所有でないことを確認し、結果的には無断で入山しました。近隣のミカン農家の所有地かもしれません。

 小倉山に登るには3通りのルートがあるようです。勝手に 1.iichikoルート 2.ニシノユニティ・ルート 3.小倉池廃寺ルートと名付けました。我々は2を選びました。途中までスレ違い不可能な一本道を車で登り、中腹のミカン畑の横に車を停めました。ここからの小倉池は絶景です。神々しさすら漂います。「阿弥陀来迎図」の舞台というのも納得出来ます。ここからは徒歩でしか進めません。途中、ケータイ用の電波塔が立っています。「聖地に何ということをするのだっ!」と腹を立てることもありましたが、小倉山の位置がどこから見ても分かり、好都合と言えます。



 程なくして、緩やかに膨らんだエリアが現れ、ここが米田氏の言う倭薈終焉の地と想像します。米田氏は「筑後国風土記逸文」を基にこの地を同定したようですが、そのほかの文献などにも目を通した上での結論と思われます。倭国王倭薈(後に阿弥陀如来と見做される)がここに埋葬されている可能性は充分にあると思います。それ故、iichikoは1480年以上の時を経て、阿弥陀の霊気を含んだ特別なお酒と言えるのではないでしょうか。この小倉山を整備し、倭国の時代の人々が国王倭薈を慕って歩いた巡礼ルートを復活させれば、地域おこし、観光に大いに資することになると思います。

 小倉山から下り、倭国東大寺跡はすぐです。終戦直後、米軍は日本全土くまなく精密な航空写真を撮っています。得られた情報は米国の国益にかなう部分もあったと思われますが、日本の考古学、歴史学にとっても大いに役立っています。米田良三氏はこの小倉山周辺の航空写真を分析し、大和へ移築する前の東大寺跡を暴いてしまいましたので、九州王朝の存在を否定したい側にとっては、米国は負の働きをしたことになります。倭国長谷寺跡に関しても同様のことが言えます。



 現在、小倉山周辺は整備された広大な田圃が広がっており、「ここが東大寺跡である」と特定しづらいと思いますが、まずは東西にやたら長いストレートな道に注目します。米軍写真(昭和20年代初頭)にも写っている この道は当時の農道としては異例な長さであり、中門前の通りの跡であろうと思われます。

 山の裾を回って小倉池に向かいます。小倉池は古代からあるにもかかわらず、表の歴史では江戸時代に掘られた溜め池と言われています。このような小細工が歴史をつまらなくし、地域の活性化を阻害しています。



 小倉池廃寺は水面が下がると基壇と礎石が顔を出します。創建時の池のサイズはもっと小さかったと想像します。お堂のサイズは4間×5間だと言われています。これは勝手な想像ですが、奈良の東大寺の三月堂(法華堂)の西半分がここにあったのではないかと考えます。歴史の勉強は、まずは楽しい仮説を立てることから始まると思うのです。『東大寺要録』にある説話に「執金剛神像を安置し、その前で礼拝を行った」との記載があるそうです。以前、奈良東大寺の三月堂の東半分(鎌倉時代の増築分)に入るために拝観料を払った後、西半分では執金剛神像が特別拝観ということで、追加して500円払ったことをよく覚えています。この二つの執金剛神像が同じものかどうかは分かりません。

 ここ宇佐に限らず古代史がらみの見学コースのどこを回っても、「磐井の乱」を取り上げているところは皆無。特に、装飾古墳の見学コースで一言も触れていないのは犯罪的ですらあります。ツアー最終日、風土記の丘・古墳と歴史博物館の受付で「磐井の乱を知っている ?」と聞いたら、平気で「知らない」との答えでした。

ブログ「民営文化センター」(2015年12月)をもとに文章をまとめました。
2016年1月4日 記