米田良三からの緊急メッセージ ( 2013. 9.11.)

想定外とは言えない!
建築・土木などの構造物を造る諸氏に問う

 建物に加わる自然の外力を代表するものに、地面・地盤から伝わる地震力と台風時に建物に加わる風の力がある。これらの外力に対処することで建物は地上に建ち続ける。地震力に対処するための方法として歴史上に二つの方法が採用された。そのひとつが現在の日本で採用されている建物を地盤に密着させて建て、地震力を外力として受け耐える方法である。建物の構造部材の強度を上げることで想定した地震力に耐える耐震工法である。

 現代日本の建築技術・耐震工法の代表作はスカイツリーとして異論はないだろう。地下50mの東京礰層と呼ばれる硬い地層に達する3箇所の節付き連続地中壁杭とこれらを結ぶ地下35mに達する連続地中壁杭で地盤に密着する。首都直下地震ほかを想定した構造安全性をうたう。強風時には入場が中止されるように、634mの塔は風の力で揺れる。節付き連続地中壁杭の「節付き」は風による引き抜き力に抵抗するための工夫とある(A図参照)。

A.スカイツリー 【 杭の概要図(地下からの見上げ)】

 この地盤に密着の方法がいつから始まったかというと文明開化の明治時代である。お雇い外国人であるロンドン育ちの建築家ジョサイア・コンドルが(東大)教授となり、建築教育に携わる。1891年日本の陸域での最大の地震、濃尾地震が起こる。被災地に赴き、倒壊した玉石造りの民家を見、建築学会で伝統的日本建築を否定する公演を行う。その結果、地盤に密着した布基礎の上に木造軸組を載せる工法による住宅の耐震化が進む。

 一方、コンドルが否定した伝統的日本建築の工法が実はもうひとつの地震に対する対処法である。石の上に建物の柱を立てることで地震力を免震し、建物に地震力を伝えることはない。石に乗った建物は台風に飛ばされないように十分に重く、慣性質量として止まり、地盤の揺れは(礎)石の下の根石(ねいし)の動きにより処理される。建物の建つ地盤が盤築(ばんちく)を施した地盤など安定しておれば免震する。断層・地割れ・地すべりなどの地盤の変形が起これば、伝統的日本建築の建物も倒壊せざるを得ない。地震に対する対処法は安定した地盤維持が前提となる。ここの所をコンドルは見抜けなかったのだ。

 現代建築の歴史はこのように100年であるが、伝統的日本建築は神社・寺院・城・民家など明治維新までの全ての建物を含み、法隆寺が建てられた(事実は筑紫の観世音寺が移築された)710年以降の1200年の歴史がある。この工法の始まりは九州では西暦元年頃で1900年の歴史があると言ってよい。

 672年以降、大和朝廷が日本国を支配するが、それ以前の近畿地方は日本国の連邦構成国で、扶桑国と称していた。元の「狗奴国」だが、当時は法隆寺(若草伽藍)・百済寺・飛鳥寺(法興寺)・橘寺・山田寺・紀寺・大官大寺・川原寺などが建ち、五重塔が林立する新興仏教国の様相を呈していた。大和朝廷の役人は日本国王室寺院であった観世音寺を調査したが、五重塔の心柱(しんばしら)まわりは塑壁が絡まり、心柱の詳細は不明のまま大和に戻り、移築計画を練ったと思われる。

 678年(『日本書紀』には684年とあるが、地方文書の地震被害の記録をもとに修正した)白鳳地震が起こる。土佐沖の南海トラフ地震で、土佐の膨大な土地が海に没している。扶桑国の寺院建築はことごとくが倒壊したと思われる。と言うのは当時の建物がその後の記録に残っていないからである。近年、山田寺の回廊が地中から発掘されたが、この地震で液状化現象が起こり、地中に沈んだと推理できる。天武天皇が拠点とした飛鳥寺の(五重)塔の記録も地震後は無くなるが、近年心柱の礎石が基壇下2.7mに発掘されている。

 法隆寺では若草伽藍が倒壊し、火災も発生している。若草伽藍を含めて敷地の整備が行われ、観世音寺の建物の配置を変えた西院伽藍の敷地を定め、金堂・五重塔の基壇が造られた。五重塔の基壇は心柱の礎石が敷地を掘って据えられ、心柱の代用となる中子(なかご)を据え、基壇全体に盤築が施され、土の層が礎石の上に2.7m積み上がる。中子を取り外すことにより深さ2.7mの心柱の掘立柱穴を持つ基壇が完成する。掘立柱穴に心柱を建て、隙間を土で埋め、心柱の根元の2.7mを地盤に密着させる扶桑国の造りである。五重塔が台風の風によって引き抜かれない穴の深さなのであろう。扶桑国の建築技術者は飛鳥寺の塔が地震で倒壊したことも、地震の2年前に完成したばかりの山田寺の五重塔が倒壊したことも知っていたが、地面・地盤に心柱を密着させる工法と地震の関係を掴めていなかったと思われる。法隆寺西院伽藍の建設は震災直後だが、同じ造りの掘立柱穴を用意したのだ。

 しかし、法隆寺五重塔の断面図(B図参照)から分かるように観世音寺から解体して運んできた五重塔の心柱は基壇の上75cmの心礎の上の皿部に建つ造りである。もちろん心礎は現在も観世音寺に残り、この解釈に一致する造りであることを確かめうる。法隆寺では掘立柱穴の周りに花崗岩を積み上げ、基壇上75㎝に台を作り、心柱を建てる。扶桑国の建築技術者はここに至って初めて日本国王室の石の上に建てる工法を理解したと思われる。

B.法隆寺五重塔 断面図

 法隆寺の五重塔が観世音寺の五重塔として建てられたのは607年のことであるが、王宮の建物にこの工法が採用されたのは400年後半の倭武の王宮からと思われる。200年代の卑弥呼の時代は掘立柱の建物であったことは政庁中門遺構重複状況模式図(『大宰府と多賀城』岩波書店)に説明できる。このように工法の切り替えに400年近くを要しており、観念を切り替える(慣性の法則の理解を得る)のは容易なことではない。

 ちなみに4000年前の青森県の三内丸山に掘立柱の建物が存在している(C図参照)。地下2mのところにせん断破壊した直径1mの栗の丸柱が発掘された。法隆寺の心柱の掘立柱穴と同じ工法で造られており、一回り大きい。穴の深さは2.45mで底に礎石はない。6個の穴が見つかり、建物は高層の倉庫を兼ねた宮殿であったと思われる。柱の根元の2.45mが地盤に密着することで台風に耐える造りとなっていたことがわかる。そして家財を含め巨大な慣性質量の建物に4000年前に巨大な地震が襲う。日本列島がフォッサマグナで合体したと思われる際の巨大地震である。地盤の変位により直径1mの栗の丸柱がせん断破壊し、建物は倒壊する。そして同時に起こった巨大津波ですべてが流されたのが三内丸山であり、丸柱の根元部分が残骸として発掘されたのだ(『列島合体から倭国を論ず』参照)。

 
C.三内丸山 発掘された大型掘立柱建物跡

 このように地震の力は想定を超えている。建物や構造物を扱う諸氏に問いたい。地震力に対する対処法は現代建築を含む掘立柱系を選ぶのか、伝統的日本建築系を選ぶのかと。原子炉・超高層ビル・スカイツリー・共同住宅他の巨大地震対策はどうしますか。

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米田良三

YONEDA'S 建築史学入門 全4冊

 御 案 内(入手法)



第一書『続 法隆寺は移築された YONEDA'S 建築史学入門』

 

 本書は著者が某建築雑誌に2001年12月から53回にわたって連載した内容がベースとなっており『法隆寺は移築された』をはじめとする 今までの4冊を総括し、新たな知見を加えた 理系ならではの興味深く、類書では絶対に見られない内容がぎっしり詰まった「建築史学入門」に仕上がっている。内容的には新泉社版とAB&JC PRESS版の橋渡し的存在なのでサブ・タイトルを「YONEDA’S 建築史学入門」に変更した。編著者のコメント・写真・レイアウトが心地よく受け入れられたら嬉しい。

第二書『現代を解く・長谷寺考』

 

 第一部で扱うのは約1500年前に造られた広大な施設(長谷寺) の遺跡である。もちろん過去、誰も取り上げていないし、ほとんど無傷のまま今に残っている。当時の建物は( 現地には )無いが、当時を復元できる諸々(もろもろ)があることを示したい。第一部の主人公の一人である柿本人麿の歌が、それらの自然と次々と結びつくこととなる。その情景の広がりをまとめたのが第二部である。第三部は阿弥陀信仰の対象である阿弥陀如来が、ここで取り上げる倭国王倭薈の存在を置き換えたものであることを経典等から明らかにしようとする試みである。(米田)

 本書をきっかけに国民の総てが長谷寺に関心を持てば、日本は生まれ変わると断言する。「清明上河図」の新解釈もビッグニュースとして世界に発信され、定説となることを期待している。

第三書『日本国王室全滅亡 東アジアの悲劇』

 

 白村江の戦いの裏には日本国・百済国・高句麗国を滅亡させるという、唐・新羅国・扶桑国の三国密約があり、日本国は用意周到で卑劣な罠に掛かったと思われる。百済国と高句麗国は国情や滅亡が嘘でも一応は歴史書に記されるが、日本国は存在したことも、滅亡したことも記されていない。(米田)

 九州王朝倭国が「日本国」を名乗っていた時代があった、とは誰も知らない。〝無かったのだから 滅亡することも無い〟という歴史の中で我々は暮らしている。真実を知らないまま、この幻の日本国のDNAを引き継ぐ現在の日本国民が再び用意周到で卑劣な罠の中にいると何パーセントが気付いているだろうか。本当の歴史を教えられないままだと 簡単に国が滅びる(日本語並びに同族意識の消滅)ものだ、と思い知らされる最近の情勢である。
 本書では宇治平等院の九州時代の所在地が明らかにされる。『源氏物語』の年表的分析も見所である。「清明上河図」に匹敵する「明人出警入蹕(ひつ)図」についても驚きの解説がなされる。

第四書『大倭歌聖 柿本人麿の真実』

 

 AB&JC PRESS版 第四書『柿本人麿の真実』のストーリー展開は前三書と重複して進行するが、柿本人麿を軸とした和歌の統計的解析、著者オリジナルの「法隆寺関連年表」、「筑紫観世音寺年表」、「源氏物語年表」が鋭く倭国の真実に迫る。理系的論述が定説派に与えるインパクトは小さくはないが、反応は皆無と思われる。類書は全くなく、従来の歴史をひっくり返すスリルが楽しめるだろう。

 今後、大いに発展する話題として 大和長谷寺を挙げたい。現在の本堂、観音像は間違いなくオリジナルと断言して良い。212頁の 「柱」 についての異論は藪蛇を招くだけ、と忠告する。仏教界、学者諸氏 ! 〝法隆寺より古い〟 歴史的事実は都合が悪かろう。しかし、世界に誇る歴史がありながら、いつまでも自虐的であり続けてよいのか ? 嘗て在った筈の王朝が消されたままで、大半の国民が知らぬ間に国の力、尊厳は加速度的に落ちている。真偽は定かでないが、現在の日本を動かしているのは純粋な日本人ではないらしい。とすれば、我が国は三度目の「白村江」の時代のド真ん中に在るのではないか ?

 本書が 〝救国の歴史書〟 と評価される日が来ることを信じ、このライフ・ワークを授けていただいた米田良三氏に感謝する。

平成29年8月2日
渡辺しょうぞう
 

 以上4書は試作版扱いのため、制作部数が極端に少なく、今後も書店に並ぶことはありません。

 「米田建築史学」シリーズ お求め方法

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 シリーズの仕様
サイズ:A5版
表紙本体:ソフトカバー(カバー付き)
本文:オールカラー版
製本:無線綴じ
発行残部数:15セット(2024年末現在)
 今後増刷の予定はありません。
価格:1セット(4冊)10000円(送料込み)
送付方法:レターパック(青)2個口で発送。
支払い:振り込み方法はGメールでお知らせします。



倭国長谷寺跡の発見

 1922年のハワード・カーター、ジョージ・カーナヴォン卿によるツタンカーメンの墓の発掘、1953年のジェームス・ワトソン、フランシス・クリックによるDNA分子らせん構造の発見、2008年、ご当地の益川敏英、小林 誠両氏のノーベル物理学賞の受賞がそうであったように、世界的な発明、発見が絶妙なコンビによって成し遂げられた例はよく知られている。
 ともに三重県松阪生まれで2歳違いのりょうぞう、しょうぞうというよく似た名前の二人組が成し遂げたことは今後どのような評価を受けるのかまったく未知数であるが、ことによると冒頭のコンビたちのように歴史にその名を刻む可能性がある。しかし、その内容となると、日本の歴史がオセロゲームのようにひっくりかえることになるので、認めたくても認められない立場の者が数多く存在する。
 謎に包まれた筈の大和長谷寺の起源が、実は500年代初頭の佐賀県にあり、現在語られるおとぎ話的な伝説がクリアな史実に取って代わられるという信じられない事実が明らかとなった。倭国長谷寺跡が発見されたのである。同定したのはりょうぞうであり、アシストはしょうぞうである。二人は2008年11月23日現地に立った。

    

 鶴舞交差点(名古屋市昭和区)界隈で残っているのは老舗の2軒のみとなってしまったが、10年前にはユニークな古本屋がもう数軒存在していた。
 その頃、今は無い書店で手にした『法隆寺は移築された』という本がそもそもの始まりであった。元々、自宅やクリニックの設計を手掛けたくらいであるから建築には興味があったが、いざ読み始めてみると、知らない日本建築の用語に満ちており、読み進むに困難を極めた。わからないところは飛ばして一通り眼を通したところ、書いてあることは直感的に本物であると思えた。
 この本の著者である米田良三氏の唱える「法隆寺移築説」、その前提となる古田武彦氏の「九州王朝説」等は歴史アカデミズムの最も嫌うところであり、未だにまともな議論は交わされていない。
 教授に逆らえない体質の歴史学会で、若手の反乱が起こるといわれて久しいが変化はない。この本のように異分野人の書く歴史本に人気があるのは、このような事情を反映していると思われる。

 その後、ちくさ正文館(名古屋市千種区)で米田氏の第4作『逆賊磐井は国父倭薈だ』を見つけ、第1作『法隆寺は移築された』と同様、四苦八苦しながら熟読した。
 タイトルの意味するところは即ち、我々が日本史でさらりと習う「磐井の乱」の磐井が実は九州王朝のすぐれた王で、その死後、阿弥陀如来や八幡大菩薩と目された方であるというのだが、現代の日本人の常識では、この説は理解不能と思われる。著作では、薬師寺、東大寺、長谷寺についてユニークな見解が述べられているが、今回注目すべきは第3章の長谷寺である。
 米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 〝初瀬の御寺〟 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」
 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 〝感動〟 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。
 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。
 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。
 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。
 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。

 歴史の勉強方法といえば、偉い先生方の説を丸暗記する受験勉強式の学習方法が頭に浮かぶが、学校で習った日本史を一度すべて白紙に戻さないと、この国の始まりの謎は解けない。一言で言えば、倭国の終わりの方は弥生時代のイメージは全くなく、東北地方までを治める「United States of 倭」とも言うべき国であり、Washington,D.C.に当たるのが大宰府であった。663年の白村江の戦いの後、大和平野の権力集団が進駐軍(唐)と結びつき「日本」をスタートさせ、九州王朝の総てをパクって我がものとして現在に至っている。歴史教科書では我が国が唐によって占領されたことは全く伏せられている。

 さて、倭国長谷寺の存在を証明する方法は色々あると思うが、いにしえの文学作品、絵巻の描写をもとに試みることができる。長谷寺参詣の話が登場するのは『源氏物語』、『枕草子』、『更級日記』、『蜻蛉日記』等があるが、後世の写本がテキストであるとか、現在の場所に移築してからの長谷寺を念頭においての記述もあることから、正確さに欠ける分は割り引く必要がある。
 『源氏物語』のなかで玉鬘が初瀬詣でに向かうのだが、倭国の京(大宰府)から歩いて4日目の巳の刻に椿市に到着し、旧知の右近と再会する。そして右近と三条の会話の中で観世音寺が話題となる。京(大宰府)を出発した場合は神埼郡三瀬村の椿市で自然だが、これまでの解釈では京都を出発し、奈良の初瀬で九州の観世音寺の情景が共通の話題として出ることは不自然といわざるを得ない。この件につき古文の教師をしている高校時代の同級生に意見を求めたところ、フィクションはあくまでフィクションと問題にしなかった。
 『枕草子』の「初瀬に詣でて」を読むと「いみじき心おこして参りしに、川の音などの恐ろしう、呉階をのぼるほどなど、おぼろげならず困(こう)じて、云々」とあり、すぐ近くに川が流れている回廊をのぼる描写である。『五木寛之の古寺巡礼 ガイド版』によると、登廊は1042年につくられ、紫式部、清少納言の頃には「本堂までの参道は、境内東側にある急な坂道だった」とある。(倭国)清少納言が随筆の中でありのままを描写しているとすると、(平安)清少納言はありもしない呉階をでっち上げていることになる。
 徳川美術館にある「源氏物語絵巻」には無い長谷寺の場面がハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」にある。構図に雲を加える洗練された描写で斜め45度のスカイビューである。現在の長谷寺と決定的に異なる点は、舞台の床板と屋根付き通路がほぼ同じ平面に描かれており、通路は登廊ではなく、愛知万博のグローバルルーフのような空中回廊と判断できる。つまり、回廊は初瀬川をまたいで架けられているのだ。当初、私は「画帖」にある登廊が本堂の前を通過していない点を米田氏に指摘したところ、本堂と回廊が同じ平面にあるという事の方がポイントであるという前記の答えを得た。我ながら、いいところに目をつけたものと自信たっぷりであったが、プロの建築家のほうが一枚上手であった。
 その回廊は舞台の右手に向かった後、左に折れ、長めのアプローチが本堂に向かう。この「画帖」が倭国の時代に描かれたにしろ、後世に模写されたにしろ、この場面は移築説でしか説明できないであろう。ちなみに、江戸時代に土佐光則によって描かれたとされる長谷寺の場面は現在のそれに似ているものの周辺の描写に乏しい。
 米田氏が作成した説明付きの地図を見ると、本堂が建っていた丘、杉神社、回廊のターンする所、雲井坂、蛇行する初瀬川等すべて「源氏物語画帖」にあり、地図上X点から南西を見れば、私の作ったコラージュのごとく各々の位置関係はピッタリ一致する。さらに北には「宿」という集落があり、そこが物語に出てくる「椿市」であろう。戦前は住人も多かったと地元の人が言っていた。一帯はスピリチュアルな雰囲気が強く感じられ、最近ブームのパワースポットとも聖地とも呼ばれそうなところである。
 源氏物語マニアは是非行くべきであり、そこが元祖 〝初瀬の御寺〟 の抜け殻スポットであると実感するであろう。それにしても、この一帯が全くと言っていいほど開発の波に洗われなかったことは奇跡であり、まだこの国にはツキが残っていると息長足姫尊に感謝したい気持ちである。

 以上が倭国長谷寺跡発見のあらましである。
 りょうぞう&しょうぞうは日本史の根本をひっくり返す発見をしたのである。マスコミが本気で報道するのか、4月1日付けのトンデモ記事でお茶を濁すのか、今後の展開はしばらく高みの見物である。

 「法隆寺移築説」は支持されつつあるが、他の建築物については当然反論が予想される。しかし、n で言えることは n+1 でも言えるという「数学的帰納法」を思い起こせば、他の建築物にも疑わしいものもが数々ある。長谷寺のほかに薬師寺東塔と東院堂、東大寺南大門、平等院鳳凰堂、室生寺、興福寺の五重塔、知恩院の鐘楼と経蔵、東福寺三門、過日、解体修理が終了した唐招提寺金堂、何と桂離宮も移築されており室生寺、興福寺、東福寺、唐招提寺以外は元の所在地も見当がついていると言う。
 これだけ多くの日本(倭)国時代の世界文化遺産があることが公になれば、わが国に世界中から観光客が殺到するに違いない。のみならず、世界の人々のわが国を見る眼も変わるし、何より日本人のプライドが復活することが喜ばしい。

 昭和40年ごろ中央公論社から『日本の歴史』という全集が出版され、大ベストセラーとなった。古代の部分はあこがれのM.I.、K.N.両教授の執筆であったが、彼らは唐による日本の占領があったという事実を知っていたのだろうか。知らなかったのなら随分怠慢であるし、知っていたのなら国民に大嘘をついていたことになり、いずれにせよひどい話ではある。父の遺品の雑誌にみつけたR.T.氏の文章(日本古代の都城)にある歴史観では外交面で中国に太刀打ちできるものではなく、本書のタイトルに 〝現代を解く〟 と付けた著者の意図が痛いほど理解できるのである。    (
『現代を解く・長谷寺考』に掲載

渡辺しょうぞう



三瀬 それは奇跡のパワースポット

 この界隈は全く開発されておらず、倭国長谷寺を偲ぶことができる夢のような聖地である。江戸時代には、善正寺からは鐘楼が、萬福寺からは経蔵が京都知恩院に移築された。丘の上には長谷寺本堂があった。丘の上に礎石が並んでいることが確認されれば、この仮説は限りなく定説に近づく。しかし、どういうわけか丘に登るルートが定かではない。山門は謎が多いが、倭尺で作られておれば、この地にあったと考えられる。倭国時代の元祖 紫式部、清少納言はこの鐘の音を聞いていた。同じ音を現代人は知恩院で聞くことができる。

 三瀬村 再訪

 2014年11月2日、三瀬村を訪れました(3度目)。
 1度目は長谷山観音寺跡の調査。その時「宿」は直感的に椿市であろうと閃きました。
 2度目は倭国時代の長谷寺の所在地の見当がついたところで、確認のため、米田良三氏と訪れました。
 3度目の今回は友人5人と「大人の修学旅行」。私がガイドです。
 あらかじめ善正寺、萬福寺に『長谷寺考』を郵送しておき、住職にお会いするつもりでしたが、両寺とも住職は不在で、お庫裏さんとお話しました。お二人とも各々、「その昔、鐘楼とか、経蔵があったという言い伝えは聞いていない」とのこと。私は「今後、古代史に興味のある人たちが訪れる機会が増えると思うので、『長谷寺考』を読んでおいて下さいと伝えました。善正寺の階段を上がると、そのスペースは知恩院の鐘楼のサイズが(現在の建物を取り除いた場合)ちょうど載っかるイメージでした。石垣は学校で習う「城の石垣の変遷」と対比した場合、戦国末期から江戸初期のものと解釈したくなりますが、かなり緻密な石組みが、あのような山中にある事からして、石造文化の発達した倭国の時代のものと確信しました。
 ご存知のように、倭国長谷寺では本堂と経蔵が近接して建っていたと米田氏が解明しておりますが、大和長谷寺本堂の外周の石畳のデザイン、その石材の材質ならびにサイズ、柱・扉・礎石の形と質感を知恩院の経蔵のそれと比べてみてください。さしずめ、同一の工務店が工事を担当したという印象です。
 昼食はかつて玉鬘も歩いたという(旧)椿市のメインストリートに面した築150年の家屋を改築した「じゅげむ」という麺処でいただきました。紀貫之が「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」と詠んだのもこの辺りであると思うと感無量のものがあります。
 この「宿」は街道に沿って紡錘形に発展した集落で、このお店以外にもしっかりした造りの古民家が並んでおり、大昔からの集落と考えられます。戦後しばらくの間、宿屋が数軒残っていたといいます。三瀬で宿泊する意昧がどこにあるのか現代の感覚では捕らえにくいのですが、倭国時代以来の門前町の伝統がかすかに残っていると考えます。集落の西の端に初瀬川が流れており、その辺りに船着場があって、椿の積み降ろしが行われていたのかもしれません。念入りに発掘すれば500年代の椿油の容器などが出てくるような気がします。



 三瀬村は世界中の人々があっと驚くエリアです

『源氏物語』玉鬘の巻の舞台

 『源氏物語』は通説より約350年昔、倭国の時代の京(大宰府)での出来事にフィクションを織り交ぜて書かれました。大和朝廷は邪馬台国に続く九州王朝を無かったものとして、ひそかに倭国の文明をパクって我がものとしています。平安時代の『源氏物語』はオリジナル『源氏物語』の改作であり、作者の紫式部も“成りすまし”です。

 早良街道が整備される以前の集落“宿”には、戦後しばらく数件の宿屋があり、このような山中での宿泊施設としての存在意義は分かりづらいのですが、倭国以来の伝統が残っていたのかもしれません。実はこのエリアは長谷寺の門前町である“椿市”なのです。この店の前を玉鬘のモデルとされる人物、紀貫之、清少納言(倭国時代の本物)が歩いていたのです。紀貫之は「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」をこのあたりで詠んだものと思われます。

 長谷寺はどこにあったのでしょうか?

 驚いたことに、この「宿」と目と鼻の距離です。
 「宿」から南下すると右手に杉神社が現れます。此処を起点に地図を見ると理解しやすいでしょう。

 中央の丘の上にあった長谷寺本堂は721年奈良県に移築されています。現在の大和長谷寺については、室町時代の観音様が江戸時代の本堂に収まっているとされますが、大嘘で、共に517年に完成したオリジナルです。法隆寺より古いのです。

 本堂跡の南に、石垣の上に建つミニ寺 善正寺がありますが、倭国時代は、そこに長谷寺の鐘楼がありました。日本一古く、大きい鐘が江戸時代のはじめまでありました。現在の“ゆく年くる年”で有名な京都 知恩院の梵鐘です。1678年に移築されたのです。元祖 清少納言もあの鐘の音を聞いていたと思うとワクワクしませんか?

 本堂の北西の萬福寺エリアのどこかに経蔵が建っていました。1621年移築されて現在、知恩院の鐘楼の近くにあります。

 杉神社、鏡神社も相当古く517年の長谷寺の創建より古いものです。
 想定される回廊の出発点としての三門跡は現在、石垣で一段高くなった畑となっています。
 上記スポットの間を蛇行して走る川の名は昔から初瀬川です。

 以上を裏付けるものとしてハーヴァード大学の所有する「源氏物語画帖」玉鬘があります。大和長谷寺ではマッチしない点が多々ありますが、三瀬村のバードビューでは各々の位置関係はピッタリと一致します。

渡辺しょうぞう

米田氏が作成した説明付きの地図

ハーヴァード大学が所有している「源氏物語画帖」

私の作ったコラージュ

倭薈終焉の地を巡る(2015.11.22.)

 米田良三 著『逆賊磐井は国父倭薈だ』で述べられている、小倉池周辺(大分県JR柳ヶ浦駅下車)の状況を体験しようと試みました。現在は何の変哲もない田舎の風景ですが、米田説が認められれば、大人気の観光スポットになると思われます。

 倭国の時代、磐井の乱後の巡礼コースに従って法鏡寺跡(発掘後再び埋め戻されている)からスタートします。車で5分程の距離にある虚空蔵寺跡は、戦後間もなく三重塔跡が発掘され、注目を浴びた遺跡です。法隆寺と同じタイプの伽藍があったと発表されていますが、発掘されたのはごく限られた部分であり、法隆寺型の伽藍の存在を証明するには無理があります。つまり、回廊が発掘されているわけではありませんので、そのような発表をすることはルール違反です。法隆寺とは異なり、三重塔、観音堂、金堂、三門等がランダムに散らばっていたと思われます。その情景を現しているのが「薬師寺古図」であり、現在の奈良の薬師寺の移築前の姿なのです。移築後、抜け殻になった所に造られたのが虚空蔵寺という事になります。


   門の位置から類推するに、南向きの伽藍ではありません。発見された塼仏が大和壺坂寺のものと同じだから、大和から運ばれたと言うのもおかしい。宇佐に在ったものを大和に運んだと考えるほうが自然です。「薬師寺古図」を詳細に観察すると、まだまだ納得できる数々の事実が発見できます。例えば三重塔には裳階が付いており、奈良の薬師寺の東塔そのものと思われ、決して大分県歴史博物館にある模型のような単純なデザインではありません。


 虚空蔵寺跡を分断するように南北にハイウェイ(宇佐別府道路)が通っていますが、この工事を契機に大規模な発掘が行われました。その際、九州王朝の存在を裏付ける発掘品があったとしても、大和朝廷中心主義的解釈がなされたと思います。都合の悪い所は意図的に掘られなかったかもしれません。

 ハイウェイの西の部分(かつての倭国薬師寺の敷地内)には本当の由来は不明ですが山積神社という随分由緒ありそうな神社が在ります。薬師寺移築後に大和朝廷主導で建てられたもの、それとも倭国起源でしょうか。1年前に訪れた佐賀県三瀬村の杉神社、鏡神社と同様、現在、本格的な御社(おやしろ)はないものの、佇まいには圧倒されます。

 さて、いよいよ小倉山に挑戦ですが、その前に、あのiichikoの会社について触れねばなりません。小倉山に向かう途中、iichikoの会社「三和酒類」の前を通ります。清らかな雰囲気に囲まれた広大な敷地、巨大なタンク群に圧倒されます。実は、会社と小倉山は背中合わせなのです。米田良三著『逆賊磐井は国父倭薈だ』79ページの小倉山遺跡配置図には倭薈が継体軍に討たれた場所が×印で示されています。そのポイントに近づきたいという思いが募った挙句、会社に問い合わせ、目指すエリアは会社の所有でないことを確認し、結果的には無断で入山しました。近隣のミカン農家の所有地かもしれません。

 小倉山に登るには3通りのルートがあるようです。勝手に 1.iichikoルート 2.ニシノユニティ・ルート 3.小倉池廃寺ルートと名付けました。我々は2を選びました。途中までスレ違い不可能な一本道を車で登り、中腹のミカン畑の横に車を停めました。ここからの小倉池は絶景です。神々しさすら漂います。「阿弥陀来迎図」の舞台というのも納得出来ます。ここからは徒歩でしか進めません。途中、ケータイ用の電波塔が立っています。「聖地に何ということをするのだっ!」と腹を立てることもありましたが、小倉山の位置がどこから見ても分かり、好都合と言えます。


 程なくして、緩やかに膨らんだエリアが現れ、ここが米田氏の言う倭薈終焉の地と想像します。米田氏は「筑後国風土記逸文」を基にこの地を同定したようですが、そのほかの文献などにも目を通した上での結論と思われます。倭国王倭薈(後に阿弥陀如来と見做される)がここに埋葬されている可能性は充分にあると思います。それ故、iichikoは1480年以上の時を経て、阿弥陀の霊気を含んだ特別なお酒と言えるのではないでしょうか。この小倉山を整備し、倭国の時代の人々が国王倭薈を慕って歩いた巡礼ルートを復活させれば、地域おこし、観光に大いに資することになると思います。

 小倉山から下り、倭国東大寺跡はすぐです。終戦直後、米軍は日本全土くまなく精密な航空写真を撮っています。得られた情報は米国の国益にかなう部分もあったと思われますが、日本の考古学、歴史学にとっても大いに役立っています。米田良三氏はこの小倉山周辺の航空写真を分析し、大和へ移築する前の東大寺跡を暴いてしまいましたので、九州王朝の存在を否定したい側にとっては、米国は負の働きをしたことになります。倭国長谷寺跡に関しても同様のことが言えます。

 現在、小倉山周辺は整備された広大な田圃が広がっており、「ここが東大寺跡である」と特定しづらいと思いますが、まずは東西にやたら長いストレートな道に注目します。米軍写真(昭和20年代初頭)にも写っている この道は当時の農道としては異例な長さであり、中門前の通りの跡であろうと思われます。


 山の裾を回って小倉池に向かいます。小倉池は古代からあるにもかかわらず、表の歴史では江戸時代に掘られた溜め池と言われています。このような小細工が歴史をつまらなくし、地域の活性化を阻害しています。

 小倉池廃寺は水面が下がると基壇と礎石が顔を出します。創建時の池のサイズはもっと小さかったと想像します。お堂のサイズは4間×5間だと言われています。これは勝手な想像ですが、奈良の東大寺の三月堂(法華堂)の西半分がここにあったのではないかと考えます。歴史の勉強は、まずは楽しい仮説を立てることから始まると思うのです。『東大寺要録』にある説話に「執金剛神像を安置し、その前で礼拝を行った」との記載があるそうです。以前、奈良東大寺の三月堂の東半分(鎌倉時代の増築分)に入るために拝観料を払った後、西半分では執金剛神像が特別拝観ということで、追加して500円払ったことをよく覚えています。この二つの執金剛神像が同じものかどうかは分かりません。

 ここ宇佐に限らず古代史がらみの見学コースのどこを回っても、「磐井の乱」を取り上げているところは皆無。特に、装飾古墳の見学コースで一言も触れていないのは犯罪的ですらあります。ツアー最終日、風土記の丘・古墳と歴史博物館の受付で「磐井の乱を知っている ?」と聞いたら、平気で「知らない」との答えでした。

ブログ「民営文化センター」(2015年12月)をもとに文章をまとめました。
2016年1月4日 記



胸をはって「君が代」を歌い、「日の丸」を掲げよう

本来の日本を取り戻すために

 「日の丸」・「君が代」の由来については巷間色々言われていますが、不幸な歴史との絡みもあって、判で押したようにステレオタイプな意見が多いようです。
 ハッキリ言って、みんな勉強不足です。乱暴な言い方ですが、平安時代の諸々の大半は奈良時代より前にあった倭国(弥生時代のイメージがマインド・コントロールされているが、実は大宰府を都とした九州王朝)のパクリ・改変なのです。
 信じられないと思いますが、現在ある長谷寺の本堂、薬師寺東塔、法隆寺、東大寺南大門、平等院鳳凰堂等は九州から移築されたものであり、『古今集』、『万葉集』も古く『源氏物語』に至っては定説より350年程前に書かれているのです。「君が代」は倭国王倭薈(学校で習う磐井の乱の首謀者)を讃える歌であり、「日の丸」は装飾古墳の壁画に描かれた日輪が由来です。その王は死後、阿弥陀如来と目された方なのです。ちなみに薬師寺の薬師如来は胸骨部に卍印が入れ墨されており、実は阿弥陀如来なのです。ことほど左様に、当時世界最先端の普遍的国家であった、すばらしい王朝の歴史が消されているのです。
 長い我が国の歴史の中では、悪いことも、良いことも色々あります。ついこの間の戦争での「君が代」・「日の丸」のイメージもその中の一つです。3.11後の日本が精神的目標とすべきは九州王朝なのです。心の中で「遠の朝延」(癖地の役所のイメージではなく、遠い昔の都の意)に思いをはせて「君が代」を歌い「日の丸」を掲げましょう。以上のことが理解できれば、「日の丸」・「君が代」を推進している人々の胸中は複雑なものになるでしょう。メロディーは今さら直す必要は無いと思いますが・・・・・・
 「日の丸・君が代」問題は倭国時代の長谷寺跡や宇治平等院の所在地が特定できたことと深く関係していることを理解していただけたら、こんなうれしいことはありません。「君が代」と古代イスラエルとを結びつける人もいるようなので、先の戦争にこだわり過ぎるのだけは程ほどにしたいものです。

繰り返しになりますが・・・・・・

 強制的に「君が代」を歌わされるのが不満な方、九州王朝、倭薈すなわち阿弥陀如来をイメージして歌えばよいのです。先の戦争のイメージなんか関係ありません。「清明上河図」に描かれる舟の中に、よく観察すると日の丸が掲げられているものがあります。
 歴史を知らない為政者と国民が同床異夢、だから No Problem なのです。我々国民はそんじょそこらの国の連中とは格が違うのです。

渡辺しょうぞう



『続 法隆寺は移築された』より

 法隆寺移築説(1989年)を唱えてまる12年が経つ。建築史学会の重鎮には当然読んでいただいたが、極端な内容であるためか、まともな反応は貰えずにいる。奈良の薬師寺の工事事務所に西岡常一氏を訪ね、解体修理工事の時の話を聞けたのは幸いだった。めずらしい人に会うからと、その場に今の建築学会長の仙田 満 氏を誘ったことが思い出となった。そのためか、細かな部分の質問には丁寧に答えてもらったが、移築を示す内容は何もないの一点張りであった。しばらくして、移築を認める内容の手紙をいただいたのはその償いかも知れない。その後、太田博太郎氏のご教示で解体修理工事の責任者であった浅野 清 氏に会って話を聞いた。前もって送っておいた本を読んでくれていることは、質問に対する答えから分かったが、まだ読んでいないと言い続けられた。肝心の話は西岡氏と同じで、移築を示す内容は何もないの一点張りであったのは正直に言って驚きであった。(米田)

既に「移築説」論争の決着はついているのです。