法隆寺移築説の原点である観世音寺・考
観世音寺副住職・西南学院大学教授の高倉洋彰氏は『大宰府と観世音寺』(海鳥ブック)に「観世音寺の名は朱鳥元(686)年に初めてあらわれる」とされます。九州歴史資料館発行の『観世音寺』(2007年考察編)は、『続日本紀』の709年の記述内容を取り上げ、観世音寺年表の最初に「671年の天智天皇の建立発願」を挙げています。『七大寺年表』には「和銅元(708)年戊申、依詔造大宰府観世音寺、又作法隆寺」とあり、続いて大和朝廷の造筑紫観世音寺別当満誓・玄肪の派遣があり、天平十八(746)年に観世音寺は完成します。
このように公式には671年以前に、観世音寺の名は無いとされています。しかし法隆寺移築説では、創建観世音寺は聖徳太子のモデルとなった日本(倭)国の上宮王が607年に創建したとします(倭国から日本国への改称は上宮王による)。671年以前の観世音寺の歴史事実を消すことは容易なのか、本当に完璧にそのように行われているのだろうか。
1.『二中歴』の観世音寺
鎌倉時代初期の成立とされる辞典『二中歴』に古い年号(九州年号)が記されています。
二三 辛酉
白鳳
対馬採銀観世音寺東院造
白鳳と言う年号は23年間続いたこと。白鳳元年は辛酉、661年であること。対馬で銀を採掘することを祝して、しろがねの白に。観世音寺の東院が造られ、上宮(じょうぐう)王像と千食(せんじき)王后像の居場所が定まったことを祝して、上宮王が自らを例えられた鳳(おおとり)に。合わせて白鳳としたとの記述。
上宮王像は(現時点で存在する法隆寺の)東院伽藍の救世観音像であり、千食王后像は同じく百済観音像のことです。創建観世音寺の主仏である釈迦像(現法隆寺金堂薬師像)の脇侍であったのですが、新しく造られた釈迦三尊像(現法隆寺金堂)が観世音寺金堂に安置された623年に外され、この二体が置かれる正式な場所が無かったことを知る必要があります。東院伽藍の講堂に当たる伝法堂は住宅(聖武天皇夫人の橘夫人邸)を転用した建物という浅野清氏(法隆寺解体修理工事を中心となって行われた建築史研究者)の研究がありますが、上宮王と千食王后が生活した建物が転用された可能性が大きく、両人にとって東院伽藍以上に相応しい居場所はないわけです。また法隆寺昭和資財帳作成の調査で、上宮王をモデルにして造られた釈迦三尊像の台座内側に墨書銘が発見されています。顔を見合わせる鳳と陵魚が描かれ、「相見?陵面楽識心陵了時者」と書かれています。光背銘には上宮王と千食王后が一日違いで亡くなったことが記されますが、亡くなった鳳である上宮王と陵魚である千食王后が、仲睦ましい時を過ごされるようにと祈願して書かれたものと思われます。この墨書銘と『二中歴』の記述とは、鳳が上宮王の譬えであることを前提とした表現となっていることを疑うことはできません。
ところで拙著『法隆寺は移築された』(新泉社)の法隆寺は筑紫観世音寺が移築されたものとする考えに異を唱える方がおられます。法隆寺が移築された建物であるという説明は認めるが、観世音寺からではないと。実は法隆寺が移築された建物であることを認めるだけで、論理的に日本の歴史はひっくり返ってしまうのですが、そのことは別の機会に述べることにし、話を進めます。
古賀達也氏は「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に次のように述べて、論を始められます。
『二中歴』所収「年代歴」によれば、白鳳元年(六六一)に「観世音寺を東院が造る」とあり(注4)、この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい。
この内容が正しいのであれば、私が法隆寺西院資財帳から導き出した観世音寺創建年607年は意味を成さなくなり、脱帽する以外にない。「観世音寺東院造」の私の読みは先に示したが、古賀氏が読まれる「観世音寺を東院が造る」が正しいかどうかを検討してみよう。(注4)として次の文を掲げておられます。
『二中歴』には「白鳳」下の細注に「対馬採銀観世音寺東院造」とあり、この文を、当初わたしは「観世音寺の東院を造る」という意味に解していたが、『二中歴』表記ルールによれば「東院という人物が観世音寺を造った」と理解すべきであることを古田武彦氏より御教示いただいた。その根拠として、「倭京」の細注に「二年難波天王寺聖徳造」という記事があり、これは「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」という意味である。
古賀氏は私と同じ読み方をされていたのを古田武彦氏の教示により変更されたことが分かる。古田氏が言われる『二中歴』表記ルールはあるのだろうか。「倭京」の細注にある「二年難波天王寺聖徳造」という記事を「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」と読むことに異論はない。聖徳は上宮王のまたの呼び名であった可能性も否定はできないが、法隆寺『西院資財帳』と同金堂薬師像光背銘に「607年に推古天皇と聖徳太子が法隆寺を造った」と上宮王の業績を書き換えたことからすると、『二中歴』執筆時に同じ路線上で書きかえられた可能性が大きい。平安末期から鎌倉時代にかけて聖徳太子信仰が盛んになったことからすると、聖徳(太子)が造るという表記は鎌倉時代初期の辞典にふさわしく、短いながら聖徳太子に関する時事記事となっている。一方の「対馬採銀観世音寺東院造」は「対馬で銀が採掘され、観世音寺を東院が造る」と、後半は「難波天王寺聖徳造」と同じ表記ルールの文として、読まれている。聖徳太子信仰から考えると、鎌倉時代初期の人々は聖徳太子が祀られる法隆寺東院の存在を知っていたことは疑えません。739年に行信が造営した法隆寺東院伽藍は上宮王院とも呼ばれており、観世音寺から移築されたことは口に出して言いはしないが、おそらく周知であり、観世音寺東院と言う言葉は法隆寺東院と共に理解されていたと考えます。さらに明らかなことは、鎌倉時代初期に聖徳(太子)同様に知られる東院と言う人物の存在を仮定しない限り、古田氏の考えは成り立たないことです。
年号の細注の数字は年号が用いられた年数を示し、続く干支は年号元年の干支を示す表記ルールとなっていますが、記事の部分には表記ルールはないと判断したいがいかがなものでしようか。「観世音寺の東院が造られた」が正しい読みとしますと、「この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい」は誤りで、古賀達也氏の反論は成り立たなくなります。
現在の大宰府都城に戻りますと、観世音寺の東隣の井戸遺構の中から「東院」と書かれたかわらけが発掘されていることはよく知られていますし、近年、観世音寺敷地内から「西院」と書かれたかわらけまで見つかっています。観世音寺が在って、東院伽藍が661年に造られ、本体を西院伽藍と呼ぶようになったことが推測できます。またもちろん法隆寺の西院伽藍・東院伽藍の名称は観世音寺から移ったことは間違いないところです。
『法隆寺は移築された』で明らかにした事実と、第2作『建築から古代を解く』(新泉社)で明らかにした、観世音寺(西院伽藍)の北面堂である三十三間堂の千体仏の完成年と、奈良文化財研究所が発表した年輪年代法の成果 ―(法隆寺)五重塔の心柱の伐採年― を加えて、以下に年代順に並べてみます。史料の凡例は、〈銘〉:釈迦三尊像後背銘、〈奈〉:奈良文化財研究所、〈資〉:西院資財帳、〈報〉:法隆寺解体報告書、〈融〉:三国遺事、〈二〉:二中歴、〈紀〉:日本書紀です。
591年………上宮王の治世始まる〈銘〉
594年………五重塔心柱の伐採年〈奈〉
598年………上宮王講経→五十万代施入〈資〉
607年………観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資〉
617年………ハレー彗星出現「六月肺出」の落書→五重塔仕上げ作業中〈報〉
618年………この頃観世音寺完成す〈報〉・〈融〉
622年………上宮王・千食王后死亡〈銘〉
623年………釈迦三尊像敬造請坐〈銘〉→上宮王像・千食王后像を外す
650年………三十三間堂の千体仏の完成〈紀〉
661年………観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二〉
これらは大宰府都城の観世音寺に関わる歴史事実です。