3.観世音寺の鐘
古賀達也氏はもう一つ反論される。
別の視点から論ずるなら、もし現法隆寺が観世音寺を移築したものであるならば、なぜ銅鐘だけは大和へ持っていかなかったのか説明困難である。わが国最古の銅鐘が観世音寺に現在も存在するという事実が米田説に不利であること、論をまたないであろう。
901年に菅原道真は大宰権帥に左遷され、榎(えのき)寺の謫所(たくしょ)に幽閉の身で、六百メートル先の観世音寺の鐘(口径86.2㎝、高さ1.6m)を聞いている。
不出門
都府楼纔看瓦色 都府の楼には纔(わずか)に瓦の色を看(み)る
観音寺只聴鐘声 観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く
話は遡るが、『源氏物語』乙女の巻には、筑紫の京に源氏の六條院が完成したことが語られる。源氏三十五歳、635年のことで、紫の上のもとには和泉式部、紫式部、清少納言ら(平安時代ではない)が仕えていました。同年、先に述べたところの玉蔓が、隠国(佐賀県佐賀市)の長谷寺に詣で、(長谷)観音の霊験により右近とめぐり合い、源氏の六條院に迎えられる。この霊験を踏まえて『源氏物語』のストーリー(17年前の出来事に立ち返る)が組立てられていることから、紫式部の執筆開始はこの霊験を知った635年以降と言うことが分かります。先の633年5月5日を記録する『和泉式部日記』、635年以降に書かれ始めた『源氏物語』と、紫の上のサロンに文学が花開くわけです。清少納言は『枕草子』(241段)で次のように述べています。
清水にこもりたりしに、わざと御使(つかひ)して賜(たま)わせたりし、唐(から)の紙のあかみたるに、草にて、
「山ちかき入相(いりあい)の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらんものを、こよなの長居(ながゐ)や」とぞ書かせ給へる。紙などのなめげならぬも、とり忘れたる旅にて、むらさきなる蓮の花びらに書きてまゐらす。
「清水」は京都清水寺ですが、この部分は平安時代に再登場した時に替えられており、本来の『枕草子』では「長谷」となっていました(『現代を解く・長谷寺考』参照)。筑紫の京には『源氏物語』で取り上げた「清水の御寺の、観世音寺」の観世音寺の別名である清水寺しかなく、清水にこもる必要はなかったのです。「紙などのなめげならぬも、とり忘れたる旅にて」とあり、筑紫の京から片道三、四日の長谷詣ででぴったりです。初瀬に籠った清少納言に文を出したのは、六條院の紫の上か、源氏姫君である明石の女御かだが、『枕草子』には源氏死亡(653年)後の様子も記されており、おそらく後者であろう。「山ちかき入相(いりあい)の鐘」と長谷寺の尾上(おのえ)の鐘が詠われる。平安時代の歌集群(多くが日本(倭)国の時代の作品の採録と思われる)に尾上の鐘を詠った歌が多く、鐘の音が広く知られていたことが分かりますし、山の中の静かな初瀬の地(現在、善正寺として鐘楼基壇が残る)で、鐘の音は大きい存在であったことは疑えません。
現在、日本三大大鐘と呼ばれるのは奈良東大寺と京都の方広寺と知恩院の三つの鐘(口径約2.7m、高さ3.2~4m)です。鐘の造りも鐘楼の造りもほぼ同じであり、同一工房の作品と思われます。ちなみに一つは510年代に造られた先に説明した長谷寺の尾上の鐘、移築して現在京都知恩院の鐘、一つは520年代に造られた奈良の京(みやこ)の東山麓の豊山(福岡県上陽町北川内)の鐘、移築して現在京都方広寺の鐘、一つは536年からの数年間に造られた小倉山(大分県宇佐市)東大寺の鐘、移築して現在奈良東大寺の鐘の三つです。吉野ヶ里近傍に造られた奈良の京を拠点に、本来の長谷寺と仏教道場である豊山を造ったのも、“磐井の乱”で亡くなり、阿弥陀如来(大仏)として東大寺に祀られるのも、〝倭の五王〟最後の倭武と神功王后の子である奈良帝(倭薈)です。観音信仰発祥から阿弥陀信仰へと倭薈を中心に歴史は動きます。
『源氏物語』夕顔の巻は源氏十七歳、617年の記録ですが、大弐(だいに)の乳母(めのと)が源氏の見舞いに対してお礼を言う場面があり、「もはや阿弥陀如来の御来迎も心残りなくお待ちいたされます」と言い、618年の若紫の巻では、僧都が源氏に「阿弥陀仏をおまつりしてある御堂に、お勤めをいたす刻限」と席を外す場面があります。阿弥陀信仰が隆盛である世の中が記録されています。
清少納言は京における日常生活の中での鐘の音について、73段に次のようにふれています。
しのびたる所にありては、夏こそおかしけれ。(中略)
また、冬の夜いみじうさむきに、うづもれ臥して聞くに、鐘の音の、ただ物の底なるやう
にきこゆる、いとをかし。鳥の声も、はじめは羽のうちに鳴くが、口を籠めながら鳴けば、いみじう物ふかくとほきが、明くるままにちかくきこゆるもをかし。
人目を避けて、好きな人と逢う時の情景について述べています。冬の夜の内裏周辺で聞く鐘の音であり、観世音寺の鐘と思われます。607年の創建時から鐘は鳴ったと考えられ、朝夕鳴る鐘の音は、もちろん90年前から鳴り始めた尾上の鐘とは異なるが、筑紫の京の人々には十分に親しまれていたと思われます。
筑紫の京は531年の“磐井の乱”後、城壁都市として再興されていました。664年唐軍の占領により、城壁が解体され(城壁の跡に造られた土盛りが水城)、京の『源氏物語』的世界は崩壊し、人々は不安と絶望の中に落されます。さらに672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され、筑紫の人々も強制的に移住させられ、平城京や京都を中心に住まわされたと考えられます。
移築の内容を見ますと、法隆寺は観世音寺の建物をそのまま用い、配置換えをすることで、姿かたちはほとんど別物に見えるように建てられています。仏像の名前も例えば、釈迦像を薬師像に変え、光背銘を追刻しています。さらに文書史料も書き換えています。観世音寺を使って歴史の捏造の限りを尽くしていると言っても過言ではありません。
ところが法隆寺の鐘は現地で鋳造したことが分かっています。技術的に劣る出来栄えですが、容易にできる観世音寺の鐘を持ってくることはなかったのです。観世音寺の鐘の音が斑鳩で鳴れば、歴史捏造のからくりの全てが分かるため、鐘を移すことはしなかったのではないでしょうか。音の記憶は万人のものであり、瞬時に捏造の本質を悟られかねません。日本(倭)文化を略奪したことを隠す試みが行われたのです。人間の行為として認めがたい卑劣なことをしたとの自覚の反映と言えます。観世音寺を移築して法隆寺を作ったことは深く人間性に関わる問題であり、古賀氏が言われるように安易に行われているのではないことは明確です。なお、豊山の鐘が方広寺に移築されたり、尾上の鐘が知恩院に移築されたのは江戸時代になってからのことで、法隆寺移築とは反対の意味(日本(倭)国文化の保護?)を持つと思われます。
『法隆寺は移築された』で述べたところですが、森貞次郎氏は「筑前観世音寺鐘考 ―とくに唐草図文を中心として―」と題する論文で、次のように述べられます。
忍冬唐草文を持つ観世音寺鐘の製作年代は、その形成からみて妙心寺鐘にきわめて近いとされながらも、宝相華文をもつ妙心寺鐘よりも明らかに年代的に遡る形式である。
この両鐘はほとんど同一の企画によって同一工房において製作されたと述べられます。妙心寺鐘の内側には陽鋳された次の銘がある。
戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘
妙心寺鐘は筑紫の糟屋評造が造ったのであり、観世音寺鐘には「上三毛」の陰刻があり、両鐘が(宇佐市の)上膳(かみつみけ)県の工房で造られたことが分かります。また工房が存続したのは日本(倭)国の時代であり、唐軍占領(664~672年)後の製作活動はあり得ません。観世音寺鐘が造られたのは607年で、妙心寺鐘が造られた戊戌年は定説の698年ではなく、60年遡った638年と思われます。参考までに、定説において698年の日付干支計算の根拠とされる『三正綜覧』は、科学的とは言い難い内容の代物と判断しています。