4.観世音寺の碾磑(てんがい)
講堂前の広場に石垣に囲まれて「碾磑」と書かれた立札と花崗岩で造られた回転挽き臼があります。上臼の厚さ約25㎝、下臼の厚さは約30㎝、直径は約1mもあり、上臼は400㎏、下臼が500㎏と相当な重量です。粉体工学の研究者である三輪茂雄氏は、唐代の磚磑との関係から、この磚磑が観世音寺創建(定説の746年)期のものと判断されていたようです。さらに古いのではと言う思いがあったのか、『法隆寺は移築された』を読み「移設時に取り残されたのかもと考えるようになりました」とメッセージを頂きました。
観世音寺の碾磑の精度について、三輪氏は次のように述べておられます。
私はさっそく、下臼に長尺の直線定規をあててみた。完全な平面が保たれ寸分の狂いもない。石積みの平面程度の加工ではなく、機械の摺動面加工に匹敵する。現在のように大型の研磨盤がなかった時代に、これだけ大きな石材の平面加工を、この精度でやってのけるのはただごとではない。私はこれをつくり出した技術水準の高さに驚異を覚えた。
もうひとつ、この調査で是非知りたいことがあった。400キログラムもある上石の重量を支えて、スムーズに回転させる軸受機構である。これは上石の中心部に直径約30センチ、高さ5センチの凸起部をつくり、下石には上石の凸起部がちょうどはまり込む穴をうがち、さらに中心に心棒孔を設け、ここに鉄の心棒を入れたらしい。さらに回転精度を保つために完全にすり合せて、ツルツルにしてある。このような石臼の軸受機構は現在までの調査では、実物も文献も類例がない。
この摩訶不思議な碾磑の存在は巨石を扱う技術―切り出し、運搬、加工―が存在し、碾磑を使用する粉体工業―朱などの材料、薬、食料の生産―が存在した文化が伴わねば在りえません。そのことを理解するには664年の唐軍占領までの日本(倭)国がこの世から消えた、そのミッシングリンクの存在を認識することから始めなくてはなりません。672年から扶桑国(大和朝廷)が行った法隆寺移築や、薬師寺、東大寺、長谷寺等の移築がそれに含まれることはもちろんですが、その前に行われた唐軍による行為についてもです。日本(倭)国王室を潰したことは明らかですが、その内容を知る術はありません。その他で分かる三つの行為の内、阿弥陀如来、つまり倭薈の存在を消す作業については、扶桑国との共同作業であったようですが、別の機会に述べることにします。他の一つは石に関する行為で、逢坂(おうさか)の関を含む城壁の解体に始まります。以下数値は概略ですが、城壁は下部の3mに花崗岩の切り石を積み、その上8mにレンガを積み、その上に高さ1mほどの手すりを回しており、逢坂の関の屋階(おくかい)には二階建ての楼館が建っていました。城門(高さ9m)をくぐる道路は道幅6mで、厚さ50㎝の巨石(1m×2m)が敷き詰められていました。これ等を跡形もなく失くし、断面が台形の土盛り(水城)としたのです。『日本書紀』は天智天皇三年(664年)の条に「この年、(中略)また筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と名付けた」と記しています。これを皮切りに後述するところの道路に敷き詰められた巨石や、水辺の巨石が剥がされ、長柄橋(ながらばし)と呼ばれた石造の巨大アーチ橋や石造の反(そ)り橋である山田橋(やまだばし)が解体されました。また、上部の木造の採光部以外は石で造られた石山寺(いしやまでら)(三宅廃寺)が解体され、中に安置されていた石刻仏像群と共に跡かたもなく持ち去りました。おまけに石工もほぼ全員が連れ去られたと思われます。巨石と石に関するものはほぼ完璧に無くなったのです。運ばれた石刻仏像群の一部は唐の洛陽の宝慶寺に飾られましたが、大半は山東半島各地に埋納されました。1945年以降に発掘されていますがそれら仏像群が略奪してきた日本(倭)国のものであると気付いた様子はありません。中心となる作品は、観世音寺の壁画に描かれた阿弥陀浄土(あみだじょうど)、釈迦浄土(しゃかじょうど)、薬師浄土(やくしじょうど)、弥勒浄土(みろくじょうど)の群像を彫刻化した石山寺の仏像群と考えられます。また連れ去った石工を使って竜門(りゅうもん)の奉先寺(ほうせんじ)の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を彫らせたと思われますが、彼らがその後どうなったかを知ることが出来ません。
石造文化としてのミッシングリンクを考えますと、朝鮮半島の南岸は倭国でしたから、現在の慶州の仏国寺にまで高いレベルの石造文化が現存しますし、琉球にも高いレベルの石造文化が存在します。これらから中心である日本(倭)国の石造文化がどれほどのものであったかを示すのが、三輪氏が説明される観世音寺の磚磑であり、山東半島の埋納された石刻仏像群であると考えます。ただ唐軍の石に対するこだわりは何なのかは今のところ分かりませんが、石の高度な技術が地上から無くなったことだけは明らかです。
残る一つの行為は貴重な絵を含む金銀財宝の略奪です。扶桑国が持ち出した日本(倭)国の財宝である、正倉院御物(の大部分)より優れたものが、唐に運ばれたことは疑う余地はありません。何家村(かかそん)出土遺物を見れば明らかですし、故宮博物院(台北)にも公表されない日本(倭)国の財宝があるのではと推測します。
ところで、中国の絵画に“清明上河図(せいめいじょうかず)”という絵巻の一群があります。定説では清明上河図は清明節の北宋の都、汴(べん)京の汴河両岸の生活風景を描いた図巻とされます。北京故宮博物館所蔵の清明上河図(北京本)は28.4㎝幅で、5.28mの長さがあり、北宋末期の作品です。途中、民間にあった時期もありますが、18世紀には再び清王朝の財宝となっていました。他に40点が知られており、日本18、台北13、ニューヨーク6、ロンドン4と世界各地で所蔵されています。
内容から分類しますと、北京本1点、清朝画院(しんちょうがいん)本5点、流布(るふ)本35点に分けられます。北京本は北宋末期に、清朝画院本は1736年に、流布本はおそらく唐の時代から清の時代まで、いろいろな時点に描かれたと思われます。
流布本と言いますが、模写(もしゃ)ではなくそれぞれが個性的な作品となっています。その描かれた内容は、朴訥(ぼくとつ)な田舎の風景・背後の山と海・その海にそそぐ河口、その河の折曲部に臨んだ寺院、さらに上流の河を上り下りする船と両岸の情景、石造の反り橋とその両岸の店と賑わい、その先の城壁、城壁の内部の街と河とその賑わい、そして最後に描くものと描かないものがある宮殿となっています。この骨格上に、お祭りの行列とか、芝居小屋の賑わいとか、土俵の相撲の様子とか、お店の様子とか、たくさんの個々の情景を取捨選択して描いており、「清明節の河のほとりの図=清明上河図」に相応しい内容です。またほぼ全ての流布本に、城壁内の街の賑わいの最後の地区に建前作業中の家が描かれています。このように街の同じ地点に家を建て始める様子が描かれていることから、一つの元本Aを見て描いた35点の流布本と言う関係にあると考えられます。つまり流布本は中国各王朝の画院が描いた作品と言えます。
清朝画院本は1736年に清朝の乾隆(けんりゅう)皇帝に奉られています。内容を見ますと、朴訥な田舎の風景と背後の海・その海にそそぐ河口の巻頭部分、河の折曲部に臨んだ寺院、河を上り下りする船と両岸の情景、巨大なアーチ橋とその橋上・両岸の賑わい、城壁、城壁内の街と河とその賑わい、そして宮殿であります。清朝画院本の骨格は流布本とほとんど変わりませんが、反り橋と城壁は壮大になり、街の様子は華麗なものになっています。乾隆皇帝は「乾隆南巡図巻」と言う大巻を画院に描かせており、絵巻に関心があったことが分かります。所有物である沢山の流布本や描かせた「乾隆南巡図巻」を元本Aと比べると、見劣りがする。そのため新しい「清明上河図」を指示して描かせたのではないだろうか。流布本の反り橋を元本Aの別の巨大アーチ橋に替え、城壁を元本Aの豪壮な城壁に替え、朴訥な田舎の風景・背後の山と海・その海にそそぐ河口を、背後の山のない元本Aの巻頭部分に入れ替え、最後の宮殿も豪壮なもの(水上宮的な建物は他の絵から模写)に替えています。
表に出ることのない元本Aの存在を仮定して、流布本と清朝画院本を説明しました。中国王朝は宝物である元本Aを元に、描く範囲を限定して画院の画家に描かせています。さらに清朝の乾隆皇帝は限定の条件を変更し、元本Aの原画に近い模写を指示したことが読み取れます。
もう一度北京本を見ますと、巻頭に海は存在せず、朴訥な田舎の風景と小川の流れのみが描かれ、次に河船と街の関係が描かれ、石造の巨大アーチ橋に代わる木造のアーチ橋と橋上、両岸の賑わいが。次に街の賑わい、木造の平らな橋、城門、城内の街の賑わいが描かれます。「清明節の北宋の都、汴(べん)京の汴河両岸の生活風景を描いた図巻」として、北宋末期に張擇端に描かせています。元本Aを見て、最大に中国化して描いた作品と捉える事が出来ます。
次に元本Aの模写本に近いと思われる清朝画院本の特徴を具体的に述べます。アーチ橋の先に見える宮殿らしき建物の庭には二、三百年経過した数本の松の木が聳(そび)えています。庭に竹林を作った施設や家が所どころにあり、季節柄あちらこちらに梅の花が咲いています。地震があったのか、被害を受けた屋根をむしろで覆(おお)った仏堂と一般の家の11軒があり、そのうちの一軒では三人の職人が復旧作業をしています。同じ原因からか、ところどころ漆喰壁(しっくいかべ)が剥がれ落ち、下地の子舞(こまい)がむき出しになった家が描かれています。城壁内の街には銭湯と思われる「潔淨浴堂」があり、「學」印の寺子屋があり、「松竹軒」と言う掛け軸屋があり、表で染糸作業をし、染めた反物を屋根の上に干し、染料の入った大甕を並べる染物屋があり、小児科・専門骨折・薬屋・油漆老店・香料店・骨董屋・雑貨屋・食堂・居酒屋などが軒を並べています。
城壁内の街中の道には、四輪の台車に巨大な切り石を載せ、20頭の馬に引かせている様子が描かれています。この情景から道路の表面は巨大な切り石が敷き詰められていることが推定できます。アーチ橋と城壁は巨大な石を用いた構築物ですし、巨石の切り出し、運搬、高度なレベルの加工技術の存在を示す各情景です。
清朝画院本に描かれる動物は14種類に上る。乗り物としてはロバと馬と牛が単独で使われ、複数乗りとして牛車と前後の馬が担ぐ輿(こし)と、二人の人間が担ぐ1人乗りのカバーの付いた輿がある。物を運ぶのは棒で担ぐか、一輪車が一般的で、土付きの庭木を四人で担いで運ぶ姿も描かれている。巨石を載せた台車を運ぶために20頭の馬が使われているように、運搬のために牛や馬が、さらにロバや水牛や駱駝が使われているが、誰一人として珍しげに見る人は描かれていない。その他芸人が連れている猿、誘導される30頭ほどの羊、犬は現在と同じ飼い犬、ペットである。
舟は櫓や竿を一人で扱う数人乗りのものから、櫓を8人で漕ぐ大型の舟で躁船に10人以上が携わるものまで各種ある。大小合わせて、36艘の船が描かれている。
清朝画院本から推定すると、元本Aの描かれた内容は4月5、6日の清明節の日本(倭)国の情景と言って誤りではないだろう。では河は何川かと言えば賀茂川(現在は御笠川)である。京(大宰府都城)から流れ出て、城壁(現在の水城)の逢坂(おうさか)の関をくぐり、約10キロ下って、承天寺手前で直角に曲がる人工河川である堀江(ほりえ)が、現在の博多区役所の先で内海である近江海(あふみのうみ)(現在の福岡市街)に流れ出ていた。流布本の反り橋は山田橋(大野城市山田)で、清朝画院本のアーチ橋は堀江に掛る長柄橋です。難波津の中心は博多で、長柄橋を渡った先に描かれた大道は逢坂(おうさか)の関まで613年に整備されました。長期間の工期を費やした長柄橋の完成は613年か、614年です。664年12月には筑紫の京の城壁は壊されており、元本Aは615年から663年までに描かれたことになります。このように見てきますと、元本Aは唐が滅ぼした日本(倭)国の王室の宝物、絵巻であった可能性が大きく、未だ台北の故宮博物館が公表しない人類の宝と思われます。
巨石文化の関係で清朝画院本を見ますと、城壁内の街の小児科に続く薬屋には「○○人参」などの商札(しょうふだ)がかかり、店の前では薬の原料を三人がかりで量っており、路面に薬研(やけん)を置き作業をする者がおり、廂(ひさし)の上には盆に入れた薬材を天日干ししている。店の隣にはロバがおり、その後ろに台に置かれた碾磑と思われる石積みがある。薬用の碾磑と仕事を待つロバと思われます。観世音寺の碾磑は一回り大きく、三輪氏は朱の製造に使われたのではないかと推定されています。